Memorandum 2022 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 75

 

 


選帝侯 (第75回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 74«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1630 年末になると Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる Sweden 王国軍は、1278 年から Hansa 同盟に加わり、1309 年に Pommern 公爵 Otto I. (1279-1344) によて公国首都と定められた、Stettin を出発して Oder 河に沿って南下し、Brandenburg 辺境伯領の Frankfurt an der Oder を目指して進軍していた。

 これに対して 1630 年 8 月以降それ迄の Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) に代わって、皇帝軍の司令官となった Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) は、同年 11 月末に Magdeburg の攻略戦の為に市郊外に布陣していた、Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) の率いる皇帝軍の半数以上はそこに残したもののそれ以外の皇帝軍を率いて、14 世紀から 15 世紀にかけて Mecklenburg-Stargard 公国の首都であった Neubrandenburg に向かって進軍し、翌 1631 年 1 月にそこに到達する。その後更に Brandenburg 辺境伯領の Brandenburg an der Havel を目指して移動している。

 一方 Sweden 王国軍が Frankfurt an der Oder に達すると、Gustav II. Adolf は本隊を先ずはそこに留まらせた一方、その内の一隊を率いて Brandenburg 辺境伯領首都の Berlin に向かった。

 この様な状況の下皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) と Wien のその廷臣達が大いに危惧したのは、Sweden 王国軍が Silesia 地方を経由して Bohemia 王国に侵攻する事、また同軍が Magdeburg の要塞を完全に手中に収める事が出来なかった場合には、Sachsen 選帝侯国の首都 Dresden を経て Elbe 河沿いに南へ進んで Praha に迄至るという事であった。

 そこで皇帝軍を率いる Tilly 伯爵は 3 日間に亘る砲撃戦の後 1631 年 3 月 9 日に、Innhausen und Knyphausen 男爵 Dodo (1583-1636) の指揮する Sweden 王国軍を殆ど壊滅状態となる迄追い込み、Neubrandenburg を巡る戦闘に於いて勝利を収めると、同月 「若し Oder [Oder 河、Frankfurt an der Oder] が失われる事があったら、全ての Protestant 信者が希望と危惧を以て見ている中心的な大要塞 [Magdeburg] を奪取する事によって Elbe [Elbe 河流域] を確保する」 という信条の下に、Elbe 河畔の重要な要塞都市であった Magdeburg の近郊に、85 の砲門を備えた凡そ 30,000 人からなる軍勢を終結させる。

 翌 4 月 21 日と 23 日になると、Tilly 伯爵 の率いる軍勢が Elbe 河の左岸に渡河するのを阻止する事が出来なかった Sweden 王国軍は、その指揮を執っていた Dietrich von Falkenberg (1580-1631) の命によって、Magdeburg 郊外の Neustadt と Sudenburg を破壊してそこから撤退した。
廃墟となったそれ等の地域は皇帝軍によって占拠され、また町の南東に位置する Trutz Pappenheim、Magdeburger Succurs と Kreuzhorst にある Trutz Tilly と呼ばれた夫々の堡塁も皇帝軍の手に渡った為に、Magdeburg を巡る包囲戦は益々厳しさを増す一方、防衛側には火薬の不足という大きな問題が発生した。

 同月 24 日に Tilly 伯爵が Falkenberg と市参事会に対して、町の明け渡しを要求したのに対して市参事会は 30 日に、Hansa 同盟及び Protestant であった Sachsen 選帝侯と、同じく Brandenburg 選帝侯の仲介の下であれば交渉に応じたいという希望を伝え、 Tilly 伯爵にはその使節達が Magdeburg に到達する為に必要な街道の開放を願った。
当初 Tilly 伯爵はそれを承知したものの、Sweden 王国軍がそれを包囲戦に晒している皇帝軍に対して、迫撃して来る為の時間稼ぎに過ぎないのではないかという危惧の念を抱き、後に翻意して逆に市壁への更なる容赦の無い砲撃を命じた。
翌 5 月 4 日に Tilly 伯爵は Magdeburg と Sweden 王国軍に対して改めて降伏する事を求めている。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 76«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:

Magdeburg


Nederland の版画家及び Calligrapher
Jan van de Velde I (1568-1623)
の版画に基づく
同時代の匿名の作者による油彩画

ca. 1600

 

 

 

 

 

 

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