Memorandum 2021 Nr. 7
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 69
選帝侯 (第69回)
»Kurfürst Teil 68«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 6]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1630 年 7 月 3 日より Regensburg に於いて開催されていた選帝侯会議の場では、数々の帝国内の問題が議題に採り上げられて討議されたが、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) が 1627 年 12 月 25 日に後継者を持たぬまま亡くなり、それによってそれ迄 Mantova 公国及び Monferrato 公国を治めて来た Gonzaga 家が途絶えた事によって発生した、両公国統治の後継権を巡る争いに関しては、同年 10 月 13 日にこの時の選帝侯会議の場に於いて皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) と、France 王国の首席大臣 Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) によって派遣された使節、Père Joseph (1577-1638) との間に和議が締結されるに至った。
これは Monferrato 公国の首都 Casale に駐屯していた France 王国軍に本国からの援軍が到着し、そこを包囲していた España 王国軍との間の直接の戦闘が最早不可避かと思われる状況に至った丁度その時で、この和議締結が法王 Urban VIII. (1568-1644, 在位 1623-1644) の特使として派遣された Jules Mazarin (1602-1661) によって、Regensburg から Casale に伝えられ、両軍の指揮官は Casale 及び Montferrat 公国から軍勢を引き揚げる事に同意し、戦闘は最後の瞬間に回避される事となった。
この時の選帝侯会議が始まって僅か 3 日後の 7 月 6 日には、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる 13,000 の Sweden 王国軍が、Pommern 公国 Usedom 島の Peenemünde に上陸侵攻しており、その後間も無くその軍勢は 40,000 の兵力に迄増強されて、Pommern-Stettin 公爵 Bogislaw XIV. (1580-1637) に対して、Sweden 王国との同盟が強要されるという事態に陥っていた為に、Ferdinand II. としては Mantova 公国及び Monferrato 公国を巡って Italia 半島に釘付け状態になっていた皇帝軍を、早急に北へ移動したいという思惑もあり、France 王国軍に対して皇帝軍は明らかに有利な状況下にあったにも関わらず、この時の France 王国の使節団との和議締結に同意したという経緯があった。
しかし France 本国では首席大臣の Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis が、国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-1643) に対して、この時の Regensburg で成立した和議を批准しない様に進言しており、更には却って France 王国軍の増強を行っている。
これによって Ferdinand II. は和平の達成に失敗したばかりでは無く、同時に 2 つの戦争を遂行せざるを得ない状況に追い込まれる事態になる為、France 王国に対しては変わらず更なる交渉に臨む意思の有る事を表明している。
その後 Mantova 公国及び Monferrato 公国を巡る争いが最終的に終わりを告げるのは、1631年 4 月 6 日に締結された Cherasco の和平条約に於いてであった。
この和平条約は Ferdinand II. 及び Louis XIII. と、前年に亡くなっていた Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) の次男でその後継者となった、Savoie 公爵 Vittorio Amedeo I. (1587-1637) との間に、Savoia 公国の Cherasco に於いて締結された。
この和平条約では軍隊の具体的な撤退の方法の他、Monferrato 公国の領有権を長年に亘って主張していた Savoie 公爵は、公国全体への要求を放棄する代わりに、15,000 Écu に相当する凡そその半分の領土を得、その代わりにその領土を失う事になる Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) に対しては、1 回に限りその領地からの 1 年間の収入に相当する額を、Savoie 公爵が保障として支払う事、またそれ以外の Carlo I. Gonzaga に残された Monferrato 公国及び Mantova 公国の領地に関しては、皇帝及び神聖 Roma 帝国より封土として彼に与えられ、Ferdinand II. より Mantova 公国の後継者とされていた Guastalla 公爵 Ferrante II. Gonzaga (1563-1630) はこの前年に亡くなっていた為に、それを継いでいたその第 1 子長男の Guastalla 公爵 Cesare II. Gonzaga (1592–1632) は、Mantova 公国の後継権を放棄する代わりに、その保障として Luzzara、Dosolo、Reggiolo と Solara を得る事等が合意された。
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[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 8]
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上部の写真:
Regensburg
1630