Memorandum 2021 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 64

 

 


選帝侯 (第64回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 63«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1627 年 12 月 25 日に亡くなった Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) によって、その相続人と定められた Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) は、France 王国内の居城があった Charleville より翌 1628 年 1 月 17 日に Mantova に到着して、両公国の統治を開始する。
しかし Gonzaga 家が Vincenzo II. の死を以て途絶え、それ迄 Gonzaga 家に封土として与えられていた Mantova 公国及び Monferrato 公国を、新たにその分家の Gonzaga-Nevers 家が治めるには、その継承を皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) より認可して貰う必要があったが、Carlo I. が縁戚関係や各国との外交交渉等の手段を尽くしたにも拘らず、同年末の 12 月の時点に於いても依然それを得る事は出来ずにいた。

 この時 Ferdinand II. は Italia 半島の両公国を、その領地の所在より France 王国側に属していた Gonzaga-Nevers 家の Carlo I. にでは無く、Gonzaga-Nevers 家よりはより新しい Gonzaga の分家ではったが、Habsburg 家のもう一方の家系が治めていた España 王国に仕えている、Gonzaga-Guastalla 家の Guastalla 伯爵 Ferrante II. Gonzaga (1563-1630) に与える事によって、Italia 半島に於ける Habsburg 家の勢力を保持するという事を考えていた。

 一方 Monferrato 公国に於いては Mantova 公国とは相違して、女系親族にも相続権が認められていた為に、Monferrato 公国の最後の Gonzaga 家の公爵となった Vincenzo II. の 2 代前の公爵で、その兄の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が、Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) の第 4 子長女の、Margarete von Savoyen (1589-1655) と結婚していた事から、Carlo Emanuele I. は兼ねてより Monferrato 公国の継承権を主張し続けて来ていたが、この時にこの相続問題よりも遥かに遡る 1539 年に、Gonzaga 家の分家として成立した Gonzaga-Guastalla 家よりは、その相続権を求める十分な権利があると考えて、皇帝 Ferdinand II. が Italia 半島に於いて確保する事を目論んだ、Habsburg 家側の勢力保持に加担する事にした。

 その為 1628 年の春になると Carlo Emanuele I. の Savoia 公国軍は、東に隣接する Monferrato 公国に侵攻してその北部を占領する。
その際には 1556 年から España 系 Habsburg 家領となっていた Milano 公国の、1625 年以来その総督として当地に駐留していた España 王国の武将、Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) の率いる España 王国軍が、Monferrato 公国の東に隣接していた Milano 公国より侵攻して、Savoia 公国軍を助けている。

 España 王国軍はその後、Alpen から Italia 半島北部一帯に亘る物資の流通を管理する上で、非常に重要な役目を果たしていた Po 河に面した、Montferrat 公国の首都 Casale に迄進軍してそこを包囲するが、Gonzaga 家によって要塞の築かれていた堅固な Casale を陥落させる事は叶わなかった。

 一方 France 王国西部の大西洋に面した La Rochelle の包囲戦に於いて、プロテスタントの勢力に対して France 王国軍が 1628 年 10 月 28 日に最終的に勝利を収め、そこに釘付けにされていた軍隊の動きが漸く自由になると、Maréchal de France (France 元帥) の Jean de Saint-Bonnet de Toiras (1585-1636) が指揮する France 王国軍は、翌 1629 年 2 月に意表を突いて、France 側の Briançon と Savoia 公国の首都 Torino 西方の Val di Susa を結ぶ、Cottische Alpen にある標高 1854 m の Montgenèvre 峠を越えて、Val di Susa に流れる Po 河支流の Dora Riparia 川に面した、Savoia 公国領の Susa に迄進軍してそこを包囲する。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 65«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:

Val di Susa

 

 

 

 

 

 

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