Musik 2021 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 31

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 30«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 5]
より続く

 

 1809 年に結ばれた契約によって Ludwig van Beethoven (1770-1827) に対して支払う事が定められていた年俸の内、Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) が分担する年額 700 Gulden に関しては、1811 年 9 月 1 日以来その支払いが行われておらず、その滞納分及びそれ以降の支払い継続を求めて Beethoven は、その頃の彼の大変逼迫した経済状況から止むを得ず、1813 年 6 月 13 日に Lobkowitz 侯爵に対する訴訟を起こしている。

 この Niederösterreich 地方裁判所に於ける裁判では Beethoven による訴えが認められたものの、 Lobkowitz 侯爵はそれを不服として控訴裁判所に上告し、その後何度にも亘る両者間の法廷闘争が行われる事となった。
最終的にこの係争は帝国裁判所に迄持ち込まれてそこで審議が行われたが、1815 年 4 月 19 日になって漸く Beethoven の権利を認める初審の判決が確定された。

 一方 1809 年に同じく Beethoven との年俸契約を結んでいた Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) に対しても Beethoven は、Lobkowitz 侯爵及び Austria 大公 Rudolph (1788-1831) に対して行っていたのと同様に、1811 年 3 月 15 日に発効された帝国金融特許令に基づいて、それ以降新たに発行される 「Wien 通貨」 に依る年俸の支払いを願い出ており、最初は 1812 年 6 月 8 日にその頃 Praha に滞在していた Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) を仲立ちとして、次いで翌 7 月 4 日には Beethoven 自身が夏の休暇で Teplitz へ移動する為に Praha に立ち寄った際に、侯爵に会って直接その了解を得ている。

 Kinsky 侯爵は Lobkowitz 侯爵と同様に、この時の帝国金融特許令による Wien 通貨への切り替えが施行される以前の 1811 年 9 月 1 日以降、自身の分担する 1800 Gulden の Beethoven に対する年俸の支払いを行っていなかった。
その滞納分に関しても、1812 年の夏の休暇を終えて 9 月に Beethoven が Bohemia 王国から Wien に戻った際に、その頃 Wien に滞在予定であった Kinsky 侯爵より、Wien 通貨によって支払って貰うという事を Beethoven は約束されていた。

 しかしこの年の Teplitz を始めとする Beethoven の Bohemia 滞在が予定よりも長引き、それに加えて Linz で薬局を営んでいた弟の Nikolaus Johann van Beethoven (1776-1848) の結婚問題の為に、Beethoven は急遽 Teplitz から Linz へ向かう必要に迫られ、9 月中に Wien に戻るというのはとても困難な状況になった。そこで Beethoven は友人で時折彼の秘書の役目をしていた Franz Oliva (1786-1848) を介して、その時 Wien に滞在していた Kinsky 侯爵との約束を改めて確かめる為に、その内容を書面にして手渡すという事を行い、その際に侯爵は Oliva に対して再度 Beethoven との約束の了解を与えた上に、必要な数日間の経過後には Kinsky 侯爵家の出納係より、それ迄の滞納分を含めた年俸全額を支払うという事を伝えている。しかしその後それが実行される事は無く、暫く経って Kinsky 侯爵は Bohemia 王国内の領地に向かって Wien を発っている。

 Austria 帝国軍の士官であった Kinsky 侯爵は、1811 年に k.u.k. Ulanenregiment „Fürst zu Schwarzenberg“ Nr. 2 に配属され、その翌 1812 年に同連隊の司令官に就任している。その年の 10 月に数週間の休暇を得て Wien から Bohemia 王国内の領地に戻り、11 月 2 日に Weltrus (Veltrusy、Praha の北方凡そ 25 ㎞) で嘗ての同僚達と再会して食後の乗馬中に、彼の乗った馬に鞍を固定している革帯が切れ、Kinsky 侯爵は馬の頭上を飛び越えて頭を石畳の道に強く打ち付けるという事故が起きる。その後同日の午後には危篤状態となり、それから 12 時間後の翌日午前 3 時にKinsky 侯爵は亡くなっている。

 一方 Beethoven は Linz に於いて弟の Nikolaus Johann の結婚を巡るいざこざを経た後、11 月後半か或いは 12 月初旬になって Linz から Wien に戻ると、Kinsky 侯爵家財務顧問官の Johann Michael Obermüller (ca. 1757–1829) に対して、侯爵が Wien を出立 する前に何か Beethoven の年俸に関する指示をしなかったかという事を問い合わせているが、Beethoven が大変驚いた事には、それに関して Kinsky 侯爵は全く何の指図も与えなかったという返答を得る。

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 32«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

Kinsky 侯爵の落馬事故が起こった場所に
その長男の
Rudolf von Kinsky 侯爵 (1802-1836) によって建てられた
帝政様式に基づく礼拝堂墓所


設計は
Wien の美術 Akademie に於いて勉強し
1827 年から 1834 年迄の間
Kinsky 侯爵家の宮廷建築家を務めた
Heinrich Koch (1781-1861)
による


1832 – 1835

Weltrus

 

 

 

 

 

 

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