Musik 2021 Nr. 4
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 29
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 28«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 3]
より続く
1813 年 5 月 27 日に Ludwig van Beethoven (1770-1827) は、帝室王室宮廷参事官で宮廷管財人の Joseph von Varena (1769-1843) に対して、彼が組織している Graz の Ursula 修道院女子学校の慈善演奏会の為に、未だその時点で初演を迎えていなかった新作の Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92) と、Symphonnie in F-dur (Nr. 8, op. 93) の 2 曲の Symphonien を提供する事が出来ると伝えているが、その年の 6 月 6 日に Graz に於いて開催されたその演奏会で、実際に演奏されたのはこれ等の 2 曲の Symphonien では無く、夫々既に 1807 年とその翌年に初演されていた、Symphonie in B-dur (Nr. 4, op. 60) と Symphonie in c-moll (Nr. 5, op. 67) であった。
Beethoven はこの年の夏を Wien の南方 25 km 余りに位置する、温泉保養地の Baden に滞在する事を決め、それを 5 月末に当地に到着していた Austria 大公 Rudolph (1788-1831) に知らせているが、Rudolph 大公はそれを喜ぶ返信を Beethoven に送っている。
Beethoven は Baden に滞在している間作曲活動の他には、音楽教師及び小規模な演奏会の企画等の活動を行っていた。
その夏の 7 月 4 日に Beethoven は Joseph von Varena に宛てて、贈り物として彼の許に届けられた細密画と、Graz の慈善演奏会の為に彼が提供した楽譜の写譜の費用を、Varena が負担してくれた事に対する感謝の意を伝える手紙を Baden より送っているが、一方同月 24 日には Wien から Baden の Rudolph 大公に対して、その月の末迄は Wien に留まざるを得ない事を謝る手紙を送っている事から、この時の Beethoven の Baden 滞在では、夏の休暇の期間を通して Baden に居る事が出来た訳では無く、比較的近距離の Wien との間を行き来していたという事が分かる。
Beethoven のこの頃の経済状況に関しては大変思わしく無い状態にあったが、その最も大きな理由は彼が 1809 年に、Rudolph 大公、Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) と、Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) の 3 人の貴族との間に締結した、Beethoven の終身年俸の為の契約に関する点にあった。
この契約は Beethoven がその前年に Westphalen 国王 Jérôme Bonaparte (1784-1860、国王としての公式名は Jérôme Napoleon) より、Kassel の宮廷に於ける楽長職の招聘を受けた際に、彼を Wien に留まらせる事を目的として、Wien の貴族達の発案によって結ばれたもので、この契約に基づいて Beethoven には Rudolph 大公より 1,500 Gulden、Lobkowitz 侯爵からは 700 Gulden、そして Kinsky 侯爵から 1,800 Gulden という分担によって、合計で 4,000 Gulden の年俸が、これと同等の報酬を伴う役職に Beethoven が就く事が出来る迄は、無期限で支払われるという事が定められていた。
しかし Napoléon 戦争を原因とする経済不況の上に、この契約が結ばれた年の第 5 次対仏大同盟戦争の結果課せられた賠償金が直接の原因となって、それから 2 年後の 1811 年 2 月 20 日に Austria 帝国は国家破産に陥ってしまい、その結果同年 3 月 15 日以後の新たな Wien 通貨としての貨幣価値が、それ以前の 5 分の 1 の価格に引き下げられるという事が発令された。これに伴って Beethoven の年俸もその価値が大幅に下がる事となってしまう。
これに加えて Beethoven にとっては更に不幸な事に、Lobkowitz 侯爵が長年に亘る芸術への寛大過ぎる支援と、その杜撰な財務管理によって殆ど破産に近い状態に陥ってしまい、1811 年 9 月以降 Beethoven に対する年俸の支払いが滞っていた。また Kinsky 侯爵の方は、領地の Weltrus (現在の Czech 共和国の首都 Praha の凡そ 25 ㎞ 北に位置する Veltrusy) を視察中に起きた落馬事故が原因で、1812 年 11 月 3 日に亡くなってしまう。上記の 3 貴族との契約では年俸の支払い義務を相続人が継承すると定められていたにも拘らず、それ以後の Kinsky 侯爵家から Beethoven への支払いは、Lobkowitz 侯爵の場合と同様に滞っていた。
Beethoven
による
手紙の原文は省略
日本語訳は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 30«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 5]
へ続く
上部の写真:
Beethoven と 3 人の貴族の間に結ばれた
Beethoven の年俸に関する契約書
最後の頁
1809