Memorandum 2020 Nr. 8
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 62
選帝侯 (第62回)
»Kurfürst Teil 61«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 7]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1627 年 12 月 25 日に Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) が亡くなると、彼によってその後継者と定められた Gonzaga 分家の、Nevers 公爵 及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) が、遠く離れた Charleville から Mantova に到着する迄の間、その息子の Carlo II. Gonzaga (1609-1631) と結婚した、本来の Gonzaga 家の最後の相続人であった Maria Gonzaga (1609-1660) が、Carlo I. の代理として Mantova 公国及び Monferrato 公国の統治を行った。
予想外の相続権を得る事となった Carlo I. Gonzaga が、翌年の 1 月 17 日に Mantova に到着すると早速新たな施策を始め、特に貧しい人々の大きな負担となっていた塩税や、農産物への課税、また延滞加算税を廃止する等の経済的免除政策によって、民衆からの大きな人気を得る事には成功したが、Gonzaga 家から Gonzaga-Nevers 家へのこの突然の領主の交代に起因する問題は、それでは解決されない全く別のところにあった。
最早途絶える運命に晒された Gonzaga 家は、Mantova 公国及び Monferrato 公国を皇帝より封土として与えられていたその封臣であり、またそれ以上に Wien の皇帝の Habsburg 家とは縁戚関係を持つとても繋がりの緊密な家であった。それに対して Gonzaga-Nevers 家は Gonzaga 家出自のその分家ではあったものの、実際には France 国王より Nevers 公国と Rethel 公国を封土として与えられ、その宮廷にも仕えていた家臣であって、France 王国との繋がりは同様に強い。
兼ねてより Italia 半島に於ける覇権と影響力を Habsburg 家と相争って来た France 王国にとっては、Carlo I. Gonzaga による今回の相続を通して、直接北部 Italia の政治情勢に関わる事の出来る可能性が急に広がる事から、この両国に於ける領主の交代は願ってもない事であった。
一方 Habsburg 家にとっては、封臣の立場にあった Vincenzo II. Gonzaga の勝手な一存で決定された、この予期せぬ領主一族の交代を容易に認める事は出来ず、これによって Mantova 公国及び Monferrato 公国が Habsburg 家の勢力範疇を抜け出て France 王国に依存する国となり、ひいてはそれを通じて France 王国が Italia 半島に新たに進出する足掛かりと成り得るという大変大きな危険性があり、今回の Gonzaga-Nevers 家による Gonzaga 家の相続は、France 王国側の陰謀に因るものだと考えた。
この様に Vincenzo II. Gonzaga によって定められた Gonzaga 家の保持していた領有権の移譲は、決して Mantova 公国及び Monferrato 公国の支配者一族内の後継者問題に留まる事柄では決して無く、Italia 半島に於けるそれ迄の各国の同盟関係を覆し、ひいては大変不安定な Europe 全体の勢力均衡を揺さぶる可能性を有する、大変大きな政治問題であった。
この様な政治状況の下で、前公爵の Vincenzo II. Gonzaga による定めとはいえ、両公国を Carlo I. Gonzaga が受け継ぐのがそう容易で無い事は、彼自身が十分に承知していた。
先ず何よりも、Mantova 公国及び Monferrato 公国が神聖 Roma 帝国の封土であった事から、それ迄の Gonzaga 家に代わる新たな封臣として Gonzaga-Nevers 家が封土を受け継ぐ為には、皇帝による許可が必須であった。
その為に Carlo I. がこの時当てにしたのは、Gonzaga 家と Habsburg 家との数々の婚姻関係を仲立ちとした緊密な繋がりで、特に彼の息子の Carlo II. Gonzaga の配偶者となった Maria Gonzaga にとっては叔母に当たる、第 4 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo I. Gonzaga (1562-1612) の、第 6 子次女の Eleonora Gonzaga (1598-1655) が、1622 年にこの時の皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の 2 番目の皇妃となっていたという事実で、それを頼りに皇帝に対して封土移譲を嘆願する為に、その使節として Mantova 司教 Vincenzo Agnelli Soardi (1581-1644) を Wien の宮廷に送る。
この先は次回
»Kurfürst Teil 63«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 1]
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上部の写真:
Mantova の
公爵宮の前面
公爵宮は
14 世紀から 17 世紀に掛けて
主に Gonzaga 家によって建設された