Memorandum 2020 Nr. 6
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 60
選帝侯 (第60回)
»Kurfürst Teil 59«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 5]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Ferdinando Gonzaga (1587–1626) が、彼の弟 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) の配偶者の Isabella Gonzaga di Novellara (1576-1630) を、魔女として訴えてその結婚を無効にし、Vincenzo II. が新たに結婚できる道を開くという企みは、1624 年 5 月に Isabella に対して最終的に、Vatikan の最高宗教裁判所によって無罪の判決が下された事によって失敗に終わる。
Ferdinando は更に、刺客を雇って Isabella の許に送るという事までやっているが、同じく失敗に終わっている。
Ferdinando と Vincenzo II. の 2 人がこの様な事等を無駄に企んで失敗を重ねているいる内に、Ferdinando が 1626 年 10 月 29 日に 39 歳で亡くなり、Vincenzo II. がそれを継いで 7 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵となった。
兼ねてより充分に意識されていた事ではあったが、Vincenzo II. が再婚に踏み切る事が出来ない限りは、彼を最後にして Gonzaga 家が途絶えるという危惧は、益々現実味を帯びて迫って来る事となった。
Vincenzo II. と Isabella は既に長らく別居関係を続けてはいたものの、その結婚は教会によって無効とはされなかったので、Vincenzo II. の公爵即位の際に彼女は、Mantova 公爵妃及び Monferrato 公爵妃の称号を得ている。その翌 1627 年 4 月にはその時の法王 Urban VIII. (1568-1644, 在位 1623-1644) によって、両者の結婚の有効性と、Isabella の両公爵妃としての地位が改めて確認され、更には配偶者及びその一族等から彼女が受けた損害に対する賠償が説かれている。
Vincenzo II. は Gonzaga 家の相続人として彼以外に唯一生存していた、兄の Francesco IV. Gonzaga (1585-1612) の第 1 子長女の Maria Gonzaga (1609-1660) と結婚して、後継者を生むという事も考えた様だが、元より Isabella が生きている限りこれは不可能であった。
その様な状況の下、未だこの時 33 歳であった Vincenzo II. の健康状態が悪化するという不運な事態が重なって来る。
そこで Vincenzo II. は、Gonzaga 家が代々受け継いで来た Mantova 公国と Monferrato 公国の支配権を、自身の Gonzaga 出自の家族に保持する事は最早不可能だとしても、それを新しく生まれていた分家に移して、少なくとも Gonzaga 系一族の内に保つという事を考えた。
Mantova 公国及び Monferrato 公国は神聖 Roma 帝国に属するその封土の一部であり、Europe の政治的均衡の保持という点に於いても非常に重要な意味を持っていた為に、この時の両公爵位の後継者の決定は、決して Gonzaga 一族内に止まる事項では無く、互いに対立する España 王国、France 王国及び Austria 大公国が、それ迄にも夫々 Italia 半島に対する大いなる関心を示して来た様に、これは Europe 全体に関わる重要な政治問題であった。
こういう状況の下、Habsburg 家の 2 つの家系である Austria 大公国と España 王国は、その候補者として Ferrante II. Gonzaga (1563-1630) を支持した。
この Ferrante II. Gonzaga は、比較的新しくその祖父 Ferrante I. Gonzaga (1507-1557) の代に、Gonzaga 家より分かれた分家の Guastalla 家に属し、España と Austria の両 Habusburg 家に仕えていた。
Mantova 公国の南西に位置する Guastalla 伯領を治めていた Ferrante II. には、1621 年に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) より公爵の称号が与えられており、それ以降 Guastalla は公国に昇格されている。
これに対して当然の事乍ら France 王国 としては、Gonzaga 家の France 系分家を重用する事が重要であり、その為に France 王国に属する Nevers 公国及び Rethel 公国を治めていた Carlo I. Gonzaga (1580-1637) を、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵の後継者として支持した。
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»Kurfürst Teil 61«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 7]
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上部の写真:
Guastalla 公爵としての
Gonzaga-Guastalla 家の
紋章