Musik 2021 Nr. 7
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 32
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 31«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 6]
より続く
Ludwig van Beethoven (1770-1827) に対する年俸の支払い契約を 1809 年に結んでいた Ferdinand Johann Nepomuk Kinsky von Wchinitz und Tettau 侯爵 (1781-1812) が、四半期毎の支払いを 1811 年 9 月 1 日以降滞納していた、年額で 1800 Gulden の年俸の滞納分を纏めて支払って貰う事を、Beethoven は 1812 年になって Vogelsang 連隊の士官であった Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) を介して、必要な指示を会計官に与えておくので、Beethoven が Paraha に来る機会があれば何時でも支払う事が出来るという約束を、同年 6 月 8 日に Kinsky 侯爵より得ていた。
その翌月の 7 月 1 日から Beethoven は、その年の夏の休暇中の滞在先として選んだ、Bohemia 王国の温泉保養地 Teplitz に向かう途上、Praha に立ち寄って短期間滞在しているが、Kinsky 侯爵にはそこから Teplitz へ向けての出発当日であった 7 月 4 日の朝に会っている。
しかしその際に Beethoven は滞納分の年俸全額を受け取ってはおらず、Kinsky 侯爵から直接 60 Dukaten を渡され、それは新しく前年に発行されていた Wien 通貨では 600 Gulden に相当するという説明を受け、Beethoven が夏の休暇を終えて Wien に戻った際に、残額を全て受け取れる様に会計官に指示をしておくという約束を Kinsky 侯爵より得て、Beethoven は Praha を後にしている。
Beethoven はその際、9 月には休暇の季節も終わって Wien に戻っているというつもりであった事と、Kinsky 侯爵もその時期は Praha から Wien に移動する予定であったので、Wien に於いて両者は再会して Beethoven は年俸の残額を受け取る事が出来るという考えであった。
しかし Beethoven が Teplitz に移動した後、そこで知り合った皇帝侍医の Jakob Staudenheimer (1764-1830) の勧めによって、更に悪化する耳疾とこの年の初春にも寝込む事のあった体の治療の為に、Teplitz から更に同国内の温泉保養地の Karlsbad や Franzensbad にも移動し、中々状態の良くならなかったその湯治の為に、Bohemia 滞在が当初の予定よりも長引いた事と、いよいよ Wien に向けて帰途に就こうとした際に、弟の Nikolaus Johann van Beethoven (1776-1848) が結婚しようとしているという話が伝わり、その結婚には強く反対するつもりであった Beethoven は、最後にもう一度 Karlsbad を経て戻っていた Teplitz から急遽、Nikolaus Johann が薬局を営んでいた Linz に向かう事となった。
Beethoven が当初予定していた様に、9 月中に Wien に戻るのは最早不可能な事が明らかな状況となって彼は、Wien の友人で彼の秘書の役目もしていた Franz Oliva (1786-1848) に頼んで、その時 Wien に移動していた Kinsky 侯爵に、Beethoven との間の年俸の支払いに関する約束を侯爵が忘れない様に改めて書面に記したものを渡し、その際に侯爵はその約束を再度了承した上で、数日中には会計官に年俸支払いの指示をしておくという事を Oliva に伝えている。
一方 Linz に於ける Ludwig と Nikolaus Johann の両兄弟間の、Nikolaus Johann の結婚を巡る激しい対立は中々収束させる事が出来ず、Beethoven の Linz 滞在は 11 月 10 日頃迄長引いた。
結局両者間の仲違いは解消されぬまま Ludwig は Wien に帰る事になるが、いよいよ今度こそ Kinsky 侯爵からの滞納分の年俸を全額受け取る事が出来ると当然考えていたであろう Beethoven が Wien に戻って知ったのは、Kinsky 侯爵が Beethoven と入れ違って既に Wien を発って Bohemia の領地に戻ったという事ばかりでは無く、その侯爵が同年 11 月 3 日に不慮の落馬事故が原因で亡くなったという全く予期せぬ知らせであった。
そこで Beethoven は Kinsky 侯爵家財務顧問官の Johann Michael Obermüller (ca. 1757–1829) のところに出向いたが、約束されていた年俸を受け取れなかったばかりでは無く、Beethoven 自身と代理人による分も含めると計 3 回に及ぶそれ迄の侯爵との間の約束とは違い、Beethoven に対する年俸支払いの指示を Kinsky 侯爵は全く出していなかったという、Beethoven にとってはその驚きを想像するに難くない事を知らされる。
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 33«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 8]
へ続く
上部の写真:
Praha の Kinsky 宮
1755 年から 1765 年に掛けて
Johann Ernst Wenzel von der Goltz 伯爵
によって建設される
宮殿の完成後間も無く Goltz 伯爵が亡くなり
1768 年に Kinsky 侯爵家に売却され
それ以降 1945 年に至る迄 Kinsky 侯爵家が所有した
Rokoko 様式に基づく宮殿建築は
新古典様式の先駆けとなる特徴も示す