Musik 2021 Nr. 2
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 27
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 26«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 1]
より続く
Ludwig van Beethoven (1770-1827) が当初は 1813 年 4 月 15 日に行うつもりであった、Symphonie in A-dur (op. 92) 及び Symphonie in F-dur (op. 93) の Orchester による試演と練習は、その時期が受難週の期間であった事や、Beethoven の急な体調不良が重なった事によって、何度か延期が重ねられる結果となったが、最終的には同月 21 日に王宮内の Austria 大公 Rudolph (1788-1831) の部屋の 1 室に於いて行われた。
その前日の 20 日に Beethoven は Rudolph 大公に手紙で、当日の午後 2 時 45 分に Orchester の楽員をを集める様に頼んでいるが、同じくその日に Beethoven の親しい友人の 1 人であった Nikolaus Zmeskall von Domanovecz (1759-1833) に宛てた手紙に於いて彼は、翌日の午後 3 時から試演が行われる事を告げ、詳細に関しては当日の午前中に追って知らせると書いている。
試演の行われた翌日に Beethoven は、Wien の Hungary 王国宮廷官房に於いて秘書として勤めていた Zmeskall に会う為に出向くが、行き違って会う事が出来ず、その為にすぐに手紙で 「 [・・・] 特に昨日 [の試演で] は Kraft 氏 [Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) の宮廷楽団の Violoncello 奏者であった Anton Kraft (1749-1820) ] の息子 [Nikolaus Kraft (1778-1853)、同じく Violoncello 奏者] が首席奏者を務めていたにも拘らず、とてもひどい演奏をした奏者達がいた事等に関して、若し話せるなら有難いです」 と伝えている。
Beethoven は更に同日中にもう 1 度 Zmeskall に手紙を宛てて、「親愛なる Zmeskallさん! この [以下の] 様な発言に関して相談出来る人物は自分にはいそうも無いので、今日の夜頃にでも話す事が出来たらとても有難いです。 [というのは] [Rudolph] 大公が、『若し Lobkowitz [上記の Lobkowitz 侯爵] に会う事が有ったら彼と話してみよう』 と言うのですが、それ以前に彼は 『もう遅すぎるかも知れないと思う』 と言っていたのです [・・・] 」 と書き送っている。
ここで Beethoven が Zmeskall に相談しようとしていたのは、Beethove がこの年の春に開催する事を考えていた慈善演奏会の会場に関する事で、彼が Rudolph 大公を通して Wien 大学の学長に働き掛けて貰う事を頼んでいた、大学大講堂の使用許可が拒否されたという知らせを受けた同月 17 日に、これに関しては既に 1 度 Zmeskall に相談を持ち掛けていた。
上記の手紙に於いて Beethoven が伝えている様に、Rudolph 大公が以前に 「もう遅すぎるかも知れない」 と言っていたのは、春に慈善演奏会を開こうとする場合に最も適しているのは受難週期間中であったが、この年のそれは 4 月 11 日から 17 日迄であった為で、また 「Lobkowitz に会う事が有ったら彼と話してみよう」 というのは、Lobkowitz 侯爵は自身の Orchester を持ち、その Wien の宮殿には彼等が演奏会として演奏出来る大広間があった事による。
上記の手紙を書いた翌 23 日に Beethoven が再度 Zmeskall に宛てた手紙では、Rudolph 大公が Lobkowitz 侯爵に直接話してくれるだろうから、全てうまく行くだろうという事、但し侯爵が次に大公の許へ出向くのは日曜日 [ 4 月 25 日] なので、それ迄は大公に頼んだ事を侯爵に絶対悟られない様にしないといけない。若し事前に知られてしまったら、経済状態の優れなかった侯爵は何とかしてそれを回避しようとするだろうからと書いていて、Lobkowitz 宮に於ける演奏会の開催には明るい見通しを持っていた事が分かる。
その予定通り 4 月 25 日の日曜日に Lobkowitz 侯爵は Rudolph 大公の許へ出向き、その結果 Beethoven は慈善演奏会開催の同意を侯爵より得る事が出来たが、5 月 15 日以降という条件が付いていたのが Beethoven にとっては全く予想外の事であった。
この知らせを翌 26 日に受け取った Beethoven は、それを早速 Zmeskall に知らせる手紙の中で、「それでは自分には全く [意味が] 無いのと同じ様に思われるし、もうこれ以上は演奏会の事を殆ど考える気がしません」 と書いており、その落胆の度合いが伺われる。
この時に問題であったのは偏に日程であって、5 月 15 日以降という時期は当時の Wien に於いては、既に社交界の大部分の人々が夏の保養地を目指して市域外へ出てしまうため、Beethoven の目指していた慈善演奏会に於ける収益面での成果を見込むのは、殆ど無理な状況となるからであった。
Beethoven
による
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 28«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 3]
へ続く
上部の写真:
Wien の Lobkowitz 宮
1691 年から 1694 年に掛けて
Italia 系 Suisse 人の建築家
Giovanni Pietro Tencalla ( 1629-1702)
によって建築され
その後 1709 年から 1711 年に掛けて
Austria の建築家
Johann Bernhard Fischer von Erlach (1656-1723)
によって改築された
1745 年に
Ferdinand Philipp von Lobkowitz 侯爵 (1724-1784)
が所有権を得て以降
Lobkowitz 家の Wien に於ける宮殿となる