Memorandum 2020 Nr. 7
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 61
選帝侯 (第61回)
»Kurfürst Teil 60«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 6]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
既に予め充分に予期されていた事ではあったが、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) の、Gonzaga 家に於ける後継者が遂に途絶える事は不可避な状況となり、Vincenzo II. が Gonzaga の分家にその後継者を見出そうとした事から、Austria 大公国と España 王国の両 Habsburg 家が推す Guastalla 公爵 Ferrante II. Gonzaga (1563-1630) と、France 王国の推す Nevers 公爵 及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) の両者が、その候補として俄かに浮上して来た。
Vincenzo II. が 1627 年 12 月に 33 歳の若さで亡くなるその数箇月前に、上記の Ferrante II. Gonzaga 自身が Mantova に Vincenzo II. を訪ねて、自身の第 1 子長男の Cesare II. Gonzaga (1592–1632) と、Gonzaga 家の最早最後で唯一の相続人となった、Vincenzo II. の長兄に当たる Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) の 第 1 子長女の、Maria Gonzaga (1609-1660) との結婚を提案した。
これによって Mantova 公国及び Monferrato 公国の領有権が彼の分家に移譲される事になるが、この案は Vincenzo II. によって拒否される。
これは既にこの時点で Vincenzo II. が彼の後継者を France 系の分家の方に決めていたためで、これによって Gonzaga 家の最後の相続人で、この時未だ 18 歳であった Maria Gonzaga の、これ以降の人生が決定付けられる事となった。
Vincenzo II. が死の床に就いていた同年 12 月 25 日に彼は、Carlo I. Gonzaga の第 3 子次男 (長男の Francesco は 1622 年に死亡) で、同じくその時 18 歳であった Carlo II. Gonzaga (1609-1631) と Maria Gonzaga を、大急ぎで秘密裏に結婚させた。
そして Vincenzo II. は、その時の一般的な予想と期待に反して、Maria の配偶者となった Carlo II. Gonzaga では無く、その父親で相続人の義父に当たる Carlo I. Gonzaga を自身の後継者と定め、その数時間後に息を引き取る。
これにより Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga が Vincenzo II. に次いで、第 8 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵に即位する事が定められた。
初代の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Federico II. Gonzaga (1500-1540) の第 6 子三男であった、Carlo I. Gonzaga の父親の Luigi Gonzaga (1539–1595) は、1565 年 3 月 4 日に Nevers 公爵及び Rethel 伯爵 François I. de Clèves (1516-1562) の長女、Henriette de Clèves (11542-1601) と結婚したが、François I. はこれに先立つ 1562 年に既に亡くなっており、François I. の後継者となった Henriette の兄の François II. de Clèves (1540-1562) は、父の没後 10 箇月の 1562 年 12 月 19 日に行われた、Dreux の戦いの最中に 22 歳で亡くなっている。また更にこれを継いだ弟の Jacques de Clèves (1544-1564) も、その 2 年後の 1564 年に亡くなっており、その両者には子供がいなかった為に、Henriette が Nevers 公国及び Rethel 伯領の相続人となっていた。
この Henriette との結婚を通して Luigi Gonzaga がそれ以来、Nevers 公爵及び Rethel 伯爵となり、Gonzaga 家の分家としての Gonzaga-Nevers 家が彼より始まる。
Luigi Gonzaga が在位中の 1581 年に Rethel 伯領は、France 国王 Henri III. (1551-1589) によって公国に昇格され、それ以降彼は Nevers 公爵及び Rethel 公爵となって、それをその息子の Carlo I. Gonzaga が継いでいた。
Vincenzo II. の死の床に於ける決定によって、実際に Gonzaga 家を相続する資格を只一人有していた Maria Gonzaga は、両公国を受け継いで公女となる事が出来ず、分家の Gonzaga-Nevers 家出自で、Maria にとっては高祖の孫 (曾祖父の甥) というかなり遠縁の、新公爵の義理の娘という立場に甘んじざるを得なかった。しかし予告なくこの決定が告げられた為に、その時点で Carlo I. は、Mantova からは遠く離れた France 北東部の、1606 年以降公爵の居城が置かれていた Charleville に居た為に、差し当たって Carlo I. が Mantova に到着する迄の間、Maria Gonzaga が Mantova 及び Monferrato 公国を統治する事となった。
この先は次回
»Kurfürst Teil 62«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 8]
へ続く
上部の写真:
Charleville の
公爵広場
1606 年から 1624 年に掛けて
Carlo I. によって建設された