Musik 2020 Nr. 7
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 24
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 23«
[Archiv / Musik 2020 Nr. 6]
より続く
1812 年の夏季休暇期間中の滞在先であった、Bohemia 王国の Teplitz に滞在していた Ludwig van Beethoven (1770-1827) がそこで、弟の Nikolaus Johann (1776-1848) が結婚しようとしているという知らせを受け取った為に、急遽 Teplitz から Wien へ一旦戻り、更に Nikolaus Johann が薬局を経営して暮らしていた Linz に直ちに向かい、10 月初頭にそこに到着している。
Linz に於いて Beethoven は、その年の 4 月に完成させた 7 番目の Symphonie in A-dur に引き続いて作曲に取り組んでいた、8 番目となる Symphonie in F-dur を完成させる作業に取り組む。
これに関して Nikolaus Johann は後に、その時に兄の Ludwig が Linz の Pöstlingsberg を散歩していた時に、この Symphonie の為の楽想を得たという報告を残しているが、この報告に関しては十分に疑わしいと考えられている。
何故ならば、遅くともこの年の初夏に Beethoven が Teplitz に向って Wien を出発した 6 月 29 日以前に、この Symphonie の実質的な作曲に着手していた事が分かっているので、最早 10 月になって未だその為の楽想を探しているという様な作曲段階であったという事は考え難い。
また Beethoven が Teplitz の滞在中にそこで知り合った、皇帝侍医の Jakob Staudenheimer (1764-1830) の勧めに従って、Teplitz から移動した同じく温泉保養地の Franzensbad に於いて、Leipzig の楽譜出版社 Breitkopf & Härtel に宛てて書いた 8 月 9 日付の手紙の中では、2 曲の Symphonie [Symphonie in A-dur (op. 92) と Symphonie in F-dur (op. 93)] を既に完成させたと記しており、それに基づいて同年 9 月 2 日に発行された „Allgemeine Musikalische Zeitung” (一般音楽新聞) 紙上に於いて、Beethoven が温泉治療の為に Teplitz, Karlsbad と Franzensbad に滞在している事、そしてそこで 2 曲の Symphonie を書き上げたという事が報告されている。
但し Beethoven 自身が既に完成させたと 8 月に Breitkopf & Härtel に知らせてはいるものの、その後も Symphonie in F-dur に対する校訂作業は行われた様子で、この作品の自筆手稿譜には „Linz, im Oktober 1812” という実際の完成の時期が Beethoven によって記されている。
翌 1813 年 3 月に Beethoven は帝室王室宮廷参事官であった Joseph von Varena に手紙を書いて、Graz の Ursula 修道院女子学校の慈善演奏会の為に、2 曲の全く新しい Symphonie [上記の Symphonie in A-dur と Symphonie in F-dur] を提供する事が出来ると伝えている。この演奏会は同年 4 月 11 日に予定されていた事が分かっているが、実際にはこの 2 曲の Symphonie がその演奏会で演奏される事は無かった。
同年 4 月 11 日から 17 日迄の受難週の期間に Beethoven は、Austria 大公 Rudolph (1788-1831) に宛てた手紙の中で、「この週は大方の写譜士達が大変忙しくしていて、翌日の午前 11 時迄に [Symphonie in F-dur の] Orchester の各声部譜を複数部準備する事は出来ませんので、復活の日に当たる次の日曜日にして頂けないでしょうか。その日迄には私 [の体調] も確実に回復しているでしょうし、指揮もよりしっかり出来ると思います。しかし明日については私のしっかりとした意思にも拘らず、幾らか困難な状況になってしまいました。金曜日には出掛ける事が出来て、私にお問い合わせ頂ける様になる事を願っています」 と書いている。
当時受難週を含む四旬節の期間は、劇場に於ける Oper 等の聴衆の楽しみの為の作品の上演が禁止されていたために、この間はその代わりに Oratorium を始めとする様々な宗教作品が劇場に於いて上演されていた。特にその期間の最後に当たる受難週にはそれ等の公演が最も多く行われた為に、写譜士達にとっては正に最も多忙な時期であった。
上記の手紙に於いて Beethoven が触れているのは、Symphonie in A-dur (op. 92) と Symphonie in F-dur (op. 93) の Orchester による試演の計画に関してで、この手紙の内容からこれが書かれたのは同年 4 月 14 日の水曜日であろうと推定されている。
この年の復活の日はその次の日曜日の 4 月 18 日であったが、元々同月 15 日の木曜日に予定されており、この時の手紙によって延期される事となったこの試演は、Beethoven が希望した 18 日にも行われる事は無く、この後更に延期される事となる。
Beethoven
による
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 25«
[Archiv / Musik 2020 Nr. 8]
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上部の写真:
作曲者によって記入された
Symphonie in F-dur 完成の
場所と日付
自筆手稿譜表紙の部分