Memorandum 2020 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 58

 

 


選帝侯 (第58回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 57«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1617 年 7 月 16 日に Camilla Faà di Bruno (1599–1662) は再度 Mantova に戻ったが、廷臣として遇されるのを避ける為に Carmelo 会の女子修道院に身を寄せて、その後凡そ 1 年余りをそこで過ごす事となった。
その際に前年の 12 月 4 日に生まれていた Camilla Faà と、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Ferdinando Gonzaga (1587–1626) との間の息子、Francesco Giacinto Gonzaga (1616–1630) は母親から離されて、Mantova の宮廷で育てられる事となった。

 それ以後も Ferdinando はこの年の 2 月 7 日に公式に結婚していた Caterina de’ Medici (1593–1629) に迫られて、Camilla Faà が再婚する様にと説得に努めたが、彼女は 「決して再婚しないという決心はとても固かった」 と後に回想録に記している様に、それに応じる事は無く、それ以後も終生に亘って自身と Ferdinando との結婚は有効であると考えていた。

 Camilla Faà と Mantova の宮廷との見解の相違が解消される見込みが無かった為に、翌 1618 年 10 月になって彼女は Mantova から、1598 年以来後継者の途絶えた Este 家の支配を離れて教会領となっていた、Ferrara にある Francesco 派の Corpus Domini 修道院に移された。
そこに於いても Camilla Faà の再婚に対する考えが変わる事は無かったが、特に Caterina の思惑をその中心とする、Mantova の宮廷が彼女に求めた修道院生活に対しては拒否する事は無かった。しかし 1616 年 6 月に Ferdinando によって Camilla Faà に与えられていた侯爵夫人の称号は、息子の Francesco Giacinto の将来の為を考えて放棄する事は無く、それに伴う年俸 1,200 Dukaten の安定した年収には満足していた。

 Camilla Faà は既婚者であったにも拘らず、兼ねてより修道女としての誓いを立てる事の許可を Vatikan に求めていたが、漸く 1622 年 5 月 22 日になってそれが特別な例外として認められ、これによってこれ以降彼女は修道女 Caterina Camilla となる。
それに付加してそれ迄の彼女と Ferdinando との間の経緯の証として、彼女が署名をする時に常に用いていた、„Gonzaga” の家族名を保持し続ける事も許された。

 その年の 6 月に Caterina Camilla は、母親から離されて Mantova の宮廷で育てられていた、当時既に 6 歳になっていた息子の Francesco Giacinto と久々に再会する事が出来た。
一方 Ferdinando と Caterina de’ Medic の間には、彼女が 2 回妊娠する事はあったが子供は無く、その為に Ferdinando は Francesco Giacinto を正統的後継者として公的に認めさせようと努めたが、母親の故郷の Monferrato に関わる権利を確保する事しか叶わなかった。

 Caterina Camilla のその後の Ferrara に於ける隠棲生活は穏やかなもので、それ迄の Mantova の宮廷との緊張した関係は緩和され、Ferdinando や Francesco Giacinto との間の手紙や贈り物のやり取りが行われていた。
その後 1625 年 10 月に、Caterina Camilla が Francesco Giacinto に会えたのがその最後となったが、その頃にはしかし彼女と Ferdinando との間の手紙のやり取りは、殆ど途絶えた状態となっていた。

 その翌年の 1626 年 10 月 29 日に Ferdinando Gonzaga は 39 歳で、その後継者を持たないまま亡くなる。
それより 2 年半後の 1629 年 4 月 17 日には、Ferdinando との幸せな結婚生活を送ったとは決して言う事の出来無い、Caterina de’ Medici が天然痘により 35 歳で亡くなる。
またその翌 1630 年 7 月 6 日には、Ferdinando の唯一の子供であった Francesco Giacinto Gonzaga が、Pestに より 13 歳で亡くなる。
一方 Caterina Camilla はその後 1662 年 7 月 14 日に 63 歳で亡くなる迄、Ferrara の Corpus Domini 修道院での生活を続けた。
彼女がその修道院で書いた、1615 年から彼女が修道女の誓いを立てた 1622 年迄の期間に亘る回想録が残されている。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 59«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:

Corpus Domini


Ferrara

 

 

 

 

 

 

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