Memorandum 2021 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 63

 

 


選帝侯 (第63回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 62«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) によってその後継者と定められた、Gonzaga 分家の Nevers 公爵 及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) が、封土としての Mantova 公国及び Monferrato 公国の継承権を、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) より認めて貰う為に、使節として Mantova 司教 Vincenzo Agnelli Soardi (1581-1644) を Wien の宮廷に送る一方、Casale Monferrato 司教 Scipione Agnelli Maffei (1586–1653) を、もう一方の家系の Habsburg 家が治めていた España 王国に、更には Roma の Vatikan 政庁や France 王国と Venezia 共和国にも夫々使節を送って、外交政策を周到に進めた。

 しかしこの時に Carlo I. が当てにしていた、彼の息子の Carlo II. Gonzaga (1609-1631) とこの直前に結婚した、本来の Gonzaga 家の最後の相続人であった Maria Gonzaga (1609-1660) を介しての、Wien と Madrid の両 Habsburg 家との、婚姻を仲立ちとする縁戚関係も功を奏する事は無く、Carlo I. の望んだ Gonzaga 家から Gonzaga-Nevers 家への相続は、両方の Habsburg 家よりそれを認める事が拒否される。

 皇帝 Ferdinand II. は Gonzaga 家が途絶えた以上、その封土として与えていた Mantova 及び Monferrato 両公国の土地の付与はこれを以て終了したとして、1628 年 3 月 28 日にそれを回収する訓令を発し、その実行の為に皇帝軍の将軍であった Nassau-Siegen 伯爵 Johann VIII. (1583-1638) を、皇帝辨務官に任命して Italia 半島へ送った。

 それに対して Carlo I. は、彼の法律上の権利に関する答申書や自身の立場を擁護する公開文書を作成したり、また皇帝には必ず領土を明け渡すという約束をする等し乍ら、彼を守る為に徴集された 12,000 の歩兵と 2,000 の騎兵からなる France 軍が、Mantova に到着する迄の時間稼ぎを行った。
しかし Carlo I. の待望していた France 軍の Italia 半島への侵入は、1556 年以来 España 系 Habsburg 家の領地となっていた Milano 公国の、1625 年からその総督として駐留していた España の武将、Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) の率いる España 王国軍によって阻止される。

 一方 Vincenzo II. Gonzaga が亡くなる以前から、Monferrato 公国の継承権を主張し続けて来た Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) は、兼ねてより France 王国と España 王国の支配する北部 Italia に挟まれた地理的条件を利用して、自国の利益の為にその時々の情勢に応じて、France 側と España 側の間を揺れ動いて来たが、Monferrato 公国を得る事が出来そうなこの最後の機会に、France 王国は一向に自分の手助けをしてはくれないので、この度は皇帝及び España 王国の両 Habsburg 家側に加担する事にし、この時 France 軍に対していた Gonzalo Fernández de Córdoba の軍と共に、Montferrat 公国内の France 軍によって占領されていた町々を征服して取返し、Gonzaga 家が要塞としていたその首都の Casale に陣営を張った。

 同年 6 月 3 日に Ferdinand II. は Carlo I. に対して、皇帝辨務官として派遣した Nassau-Siegen 伯爵 Johann VIII. に従わない場合には、追放処分にするという布告を発する、
それでも Carlo I. は未だ躊躇し続けていたたので、8 月 16 日に改めて皇帝による布告が発せられたために彼は同年 10 月 10 日に、息子の Carlo II. Gonzaga を自身の代弁者及び仲裁者として Wien に送る事を決心する。

 Carlo I. はこの時再度、義理の娘の Maria Gonzaga が、皇妃 Eleonora Gonzaga (1598-1655) の姪に当たるという縁戚関係を大変当てにする訳だが、取り敢えずはその彼の期待に叶って、Maria Gonzaga の配偶者の Carlo II. Gonzaga は、Wien の宮廷に於いて大変親密に歓待される。
しかし Mantova 公国を家系の途絶えた Gonzaga 家より一旦回収し、改めて Gonzaga-Nevers 家とは別の Gonzaga 分家の、Guastalla 公爵 Ferrante II. Gonzaga (1563-1630) に封土として与えるという、Ferdinand II. の決意は大変固く、同年 12 月初旬に Mantova に戻った Carlo II. が、Wien よりもたらす事の出来るものは何も無かったという結果に終わる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 64«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:

Monferrato 公国の首都
Casale の
Paleologi 城


14 世紀半ばに
Monferrato 侯爵 Giovanni II. Paleologo (1321-1372)
によって建設され
それ以後宮廷の所在地となる

その後 16 世紀に Gonzaga 家によって
6 角形の要塞へと改築される

 

 

 

 

 

 

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