Memorandum 2022 Nr. 4
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 74
選帝侯 (第74回)
»Kurfürst Teil 73«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 3]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Brandenburg 辺境伯領内の重要な要塞都市であった Frankfurt an der Oder を巡って 1631 年 4 月 13 日に行われた戦いに於いて、Pommern 公国から神聖 Roma 帝国領内へと侵入して、そこから南下を進めていた Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる Sweden 王国軍が、カトリック連盟による帝国側防衛軍に対して勝利を収めた事から、Frankfurt an der Oder はその後の Sweden 王国軍の帝国域内に於ける更なる進軍を援護するという機能を果たす事となった。
Frankfurt an der Oder が陥落した僅か 1 週間後の同年 4 月 23 日に、同じく Brandenburg 辺境伯領内の北東部、Neumark の重要な都市であった Landsberg an der Warthe が Sweden 王国軍により占領され、Brandenburg 辺境伯及び選帝侯 Georg Wilhelm (1595-1640) は、それ迄 Gustav II. Adolf より強く要求されており、口頭で受け入れはしたものの実際には拒否し続けて来た、Sweden 王国との関係を定める協約の締結を決意せざるを得ない状況に追い込まれる事となった。そこで遂に同年 5 月 14 日に両国間に協約が締結され、それはその後同年中に 2 回に亘って内容が更新されている。
この時の協約に於いて、公式には両国間に同盟関係を結ぶという表現がされる事は避けられたものの、Georg Wilhelm は Sweden 王国軍の物資の補給を担い、更には首都の Berlin を防衛する為に建造された Spandau の要塞と、1571 年迄 Brandenburg-Küstrin 辺境伯領の首都であり、それ以降 Brandenburg 辺境伯領となった Küstrin の要塞も併せて、その後の Sweden 王国軍の帝国内侵攻の為の軍事基地としての使用を認める事となった。
これに先立つ 1630 年 7 月 6 日に Gustav II. Adolf が、Pommern 公国の Usedom 島に上陸侵攻して未だ間も無い同年8月1日に、Elbe 河畔の重要な要塞都市であった Magdeburg は、同じく Hansa 同盟の重要な都市であった Stralsund に次いで唯一、Sweden 王国と同盟関係を結んでおり、それに伴って Gustav II. Adolf は Magdeburg に対して、皇帝軍からの同都市の保護を約束している。
同年 11 月には Sweden 王国軍の将校であったた Dietrich von Falkenberg (1580-1631) が、船員の姿に変装して Magdeburg に潜入し、要塞司令部の指揮を請け負って都市防衛の為の準備を進めている。
Falkenberg は Stralsund と同様に、Magdeburg に於いても新たに傭兵を徴集し、市郊外の守りを固めて市壁外には防備設備の建造を行ったが、市民達は既に長期間に亘る戦争状態に疲弊しており、彼等市民からの援助を十分に得る事が叶わなかったた為に、都市の防衛戦争を準備する為の資金が十分では無く、兵士数にも明らかな不足があった。
この様な状況の下同年 11 月末になると、Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) の率いる皇帝軍の一隊が、Magdeburg の攻略戦の為に市郊外に布陣している。
Gustav II. Adolf はその頃 Pommern 公国と、Balt 海に臨む要塞化された港湾都市の Rostock と Wismar も含む、Mecklenburg 公国の大半を占領しており、Pommern 公国の首都 Stettin から Oder 川に沿って南下し、Magdebuerg を包囲している皇帝軍を退散させる事を狙って、Frankfurt an der Oder を目指して進軍していた。
一方この年の 7 月 3 日から Regensburg で開催されていた選帝侯会議に於いて、同年 8 月 13 日に行われた決議によって、皇帝軍の総司令官を解任される事となった Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) に代わって、皇帝軍を担う事となった Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) は、帝国領内を南進する Sweden 王国軍に対する為に、嘗ての Mecklenburg-Stargard 公国の首都のあった Neubrandenburg に向けて進軍する。
この先は次回
»Kurfürst Teil 75«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 5]
へ続く
上部の写真:
Spandau の要塞
Berlin の防御の為に
1560 年から要塞の建築が開始され
Italia の要塞建築家
Lynar 伯爵 Rochus Quirinus (1525-1596) によって
1594 年に完成される