Musik 2021 Nr. 8
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 33
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 32«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 7]
より続く
Ludwig van Beethoven (1770-1827) との間に年額 1800 Gulden の年俸の支払い契約を 1809 年に結んでいた Ferdinand Johann Nepomuk Kinsky von Wchinitz und Tettau 侯爵 (1781-1812) は、四半期毎に支払っていたその年俸の支払いを 1811 年 9 月 1 日以降行っておらず、その滞納分を纏めて支払って貰う約束を再三得ていたにも拘らず、Beethoven が年俸の残額を得る事の無い儘、侯爵は不慮の落馬事故が原因で、事故の翌日の 1812 年 11 月 3 日に亡くなる。
Beethoven にとっては侯爵の生前の約束とは違い、彼に対する年俸支払いの指示を侯爵が全く行っていなかった為に、状況は大変困難なものとなったが、当初の契約に於いて、侯爵が亡くなった場合にはその相続人が年俸の支払い義務を継承するという事が定められていた為に、Beethoven は 1812 年 12 月 30 日に、未亡人となった Maria Charlotte Kinsky von Wchinitz und Tettau 侯爵夫人 (1782–1841) に宛てて、この侯爵との間の年俸支払い契約に関する手紙を送っている。
Beethoven はその手紙に、同年の 9 月に Teplitz から Wien に戻るつもりであったがそれが無理な状況となった為に、Beethoven の代理として侯爵に会いに行った Franz Oliva (1786-1848) による、それ迄の Beethoven と侯爵との間の年俸の支払いを巡る交渉の経緯と、侯爵がそれ迄の滞納分全額の支払い、及び滞納分とそれ以後の支払に関しても、償還紙幣による支払いを約束していたという事を証言する書面を添えて、侯爵夫人に滞納分の年俸の支払いと、それ以降の年俸に関しても、1811 年 3 月 15 日に施行された帝国金融特許令に基づいて発行される事となった、Wien 貨としての償還紙幣による支払いを、侯爵家の財務官に指示するように頼んでいる。
その際に Beethoven は弟の Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) が結核に罹って、その家族全員の生活費も負担しなければならなくなったが、侯爵家からの年俸を支払って貰う事が出来れば自分は何とか生きて行く事が出来るという希望を以て、弟の家族の為に既に全財産を費やしてしまったと訴えている。
Kaspar Anton Karl は兄の Ludwig を追う様にして、Ludwig が Wien に移った 2 年後の 1794 年に Wien に来ており、当初は兄の秘書の役目をし乍ら自身も作曲家として生活する事を目指していたが、それを諦めた後は財務省の下級官吏として Wien に於いて働いていた。
更に Beethoven はこの時の手紙の中で、1812 年 7 月 4 日に Praha に於いて Beethoven が侯爵に会った際に、滞納していた年俸の一部として侯爵より直接 60 Dukaten を手渡されていたが、それを後に侯爵家財務顧問官の Johann Michael Obermüller (ca. 1757–1829) に話すと、彼自身もまた財務官の Johann Geyling もその事は全く知らされていなかったので、Beethoven はそれを黙っている事も出来たと言われたという話を侯爵夫人に告げて、これで自分が如何に真剣かという事が理解して頂けるでしょうと書いている。
その時存命していた侯爵の息子達は、長男の Rudolf (1802-1836) と三男の Joseph (1806-1862) の 2 人であったが共に未成年であったために、Maria Charlotte が後見人となっていた。しかし同時に Praha 総督であった Kolowrat-Liebsteinsky 伯爵 Franz Anton (1778-1861) が共同後見人となっており、財務に関わる件については共同後見人及び後見人官庁の同意を得なければ決定する事が出来ない為に、Maria Charlotte は Beethoven からの手紙を Kolowrat-Liebsteinsky 伯爵に渡し、その経緯を後に手紙で Beethoven に知らせている。
Kolowrat-Liebsteinsky 伯爵は更に、Maria Charlotte から渡されたその Beethoven の手紙を、Kinsky von Wchinitz und Tettau 侯爵家の弁護士であった、Praha の Dr. Johann Franz Lippa に渡している。
翌 1813 年 2 月 12 日に Beethoven は Marie Charlotte に宛てて、彼の願いを聴き入れた上で年俸支払いへの方策を執って貰った事に対して感謝する手紙を書いている。そして間も無く監督官庁は Beethoven の希望を叶える決定を下すであろうという楽観的な見通しを表明しているが、実際には Beethoven の希望した通りに事は速やかには運ばず、侯爵家からの年俸の支払いはその後も停止された儘の状況が暫くの間続き、それが清算されたのは漸く 1915 年 1 月になってからであった。
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 34«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 1]
へ続く
上部の写真:
Beethoven による
Maria Charlotte Kinsky von Wchinitz und Tettau
に宛てた手紙
1813 年 2 月 12 日付
最後の頁