Memorandum 2020 Nr. 3
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 57
選帝侯 (第57回)
»Kurfürst Teil 56«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 2]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Camilla Faà di Bruno (1599–1662) が 1616 年 9 月 3 日に遂に Mantova を去って、故郷の Casale Monferrato に落ち着いた後も、彼女と秘密裏に結婚式を行った Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Ferdinando Gonzaga (1587–1626) との間の、親密は手紙のやり取りは続いていた。その手紙の中で Ferdinando は、Camilla に対する真心のこもった愛情を打ち明けているが、彼が兄より受け継いだ Mantova 公爵及び Monferrato 公爵という立場に伴う政治的な理由から、公的には独身状態であった Ferdinando が、他国との婚姻の取引から無関係でいる事は出来なかった。
そういう状況の下で Ferdinando が婚姻関係の交渉相手としたのは、Toskana 大公 Cosimo II. de’ Medici (1590-1621) であったが、当時 23 歳であった彼の妹の Caterina de’ Medici (1593–1629) との結婚を認める条件として Cosimo II. は、Ferdinando が Camilla Faà di Bruno に手渡して彼女が保持しているという、Ferdinando が署名を行った結婚の誓約と、結婚式の後にそれを証した書類の返還、及び法王 Paul V. (1552-1621) によるその結婚の無効を宣する布告の発布という、その後の Caterina との正式な結婚が成立する為の保証を要求した。
しかし Paul V. はその後 Ferdinando と Camilla Faà との結婚の無効宣告を行う事は無く、これが後の段階になって、Camilla Faà が Ferdinando との結婚の有効性を再度主張する事になる一因となった。
Paul V. の法王という立場からは、Ferdinando と Camilla Faà の秘密裏に行われた結婚式が、1562 年から翌年に掛けて開催された、Trient の公会議の第 3 会期に於いて決定され、結婚の秘跡に関する „Tametsi” の布告に於いて定められていた様に、結婚式に先立つ婚約の公表と、2 人以上の証人の立ち合いの許に結婚式が行われるという条件を満たしていない事から、そもそもこの両者の結婚は教会法上最初から成立していないので、それを改めて無効と宣言する事は出来なかった。
従ってこの事は Ferdinando と Caterina の結婚の為に Cosimo が必要だとして求めた、Vatikan による再婚の特例の許可による新たな結婚の保障が、実質的には既に与えられているという意味になる。
そこで Ferdinando は残る案件となっている、彼が署名を行って渡した 2 通の証書を、Camilla Faà から取り戻す事を試みたが、彼女にはそれを返すつもりが無かったので、その問題を解決する為に Ferdinando は、証書の副本を作成してそれを Cosimo に送る事によって片付けようとしている。
しかしこういう事をし乍ら Medici 家との結婚の交渉を進めている一方で、Ferdinando の一連の行動は決して一意的では無く、1616 年の 11 月には Camilla Faà との再会を果たす為に、自らが Casale Monferrato に迄出向くという事をしている。
その翌月の 12 月 4 日には、Ferdinando と Camilla Faà との間の息子、Francesco Giacinto Gonzaga (1616–1630) が生まれているが、それにも拘らず Ferdinando は Camilla Faà に、彼と Caterina de’ Medici との結婚が近づいているという事を言い伝えている。
これ等に見られる Ferdinando の曖昧な行動と、Cosimo には益々募る一方の不信感の為に、Gonazaga 家と Medici 家との結婚の交渉は困難を極める事となったが、それでも双方の思惑が絡んで最終的には翌 1617 年 2 月 7 日に、Ferdinando と Caterina de’ Medici との盛大な結婚式が、Toskana 大公国の首都 Firenze に於いて行われるという結果に迄到達する事が出来た。
その一方でこの結婚式の翌月には、Camilla Faà が Ferdinando に、彼等の唯一の息子 Francesco Giacinto の肖像画を贈っており、またこの Caterina との公式な結婚式の後も、Camilla Faà と Ferdinando の間で秘密裏に手紙のやり取りが続けられていた。
恐らくそういう 2 人の関係を知っていた事から、Caterina は Camilla Faà が新たに結婚する事を求めていたが、その為に Camilla Faà 自身は同意しなかったにも拘らず Mantova に戻される事となり、彼女は自ら去って以来 10 箇月振りとなる 1617 年 7 月 16 日に、再度 Mantova の地に足を踏み入れる事となった。
この先は次回
»Kurfürst Teil 58«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 4]
へ続く
上部の写真:
Ferdinando と Caterina の
結婚の祝宴が行われた
Pitti 宮
Firenze