Memorandum 2021 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 65

 

 


選帝侯 (第65回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 64«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-) と、1624 年以降その首席大臣を務めていた Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) を伴い、France 王国の Briançon と Savoia 公国の首都 Torino 西方の Val di Susa を結ぶ、標高 1854 m の Montgenèvre 峠を越えた、Maréchal de France の Jean de Saint-Bonnet de Toiras (1585-1636) が 指揮する France 王国軍は、Savoia 公国領の Susa に向いそこを包囲する。

 Po 河支流の Dora Riparia 川に面する Susa は、Alpen を超えて France 王国と Italia 半島を結ぶ大変重要な交易路上にあったが、ここが包囲の後 France 王国軍によって占領された事によって、Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) と France 国王 Louis XIII. は、1629 年 3 月 11 日に条約を締結する事になる。

 この Susa 条約によって、Monferrato 公国を目指して進軍して来た France 王国軍が、その首都 Casale の包囲を可能にする為に、Savoia 公国領内を通過する事を Carlo Emanuele I. は認め、また 1627 年 12 月 25 日に亡くなった、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) によってその相続人と定められた、Mantova 分家の Gonzaga-Nevers 家に属する、Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) が 1628 年 1 月より統治を始めていた、Mantova 公国に対する Carlo Emanuele I. のそれ迄取って来た敵対的関係には、距離を置くという事が合意された。
一方 France 王国側はこれ等への見返りとして、Savoia 公国に対して 15.000 Kronen を支払うという事も同時に定められた。

 この Susa 条約はその時 Casale に迄進軍してそこを包囲していた、España 王国軍を率いている Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) によっても是認され、その結果 Casale の包囲は解除されて、España 王国軍は Gonzalo Fernández が総督として駐留していた Milano 公国へ帰還した。
それに代わって France 王国の駐屯部隊が Casale に配置され、それ以外の France 王国軍の本隊は本国へ引き返す事となった。

 この Susa 条約の締結に先立つ前年の 1628 年に、España 王国からの圧力によって皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は、Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga に対し、封土権の侵害に基づいて Mantova 公国及び Monferrato 公国の差押えを宣言していた。しかし Carlo I. Gonzaga はその強制執行に対して同意する事を拒否し、更には France 王国による助けを当てにして、Monferrato 公国からの 1 年分の利金を、前以て France に支払うという事を行った。

 そこで Ferdinand II. は 1629 年の秋になって、皇帝首席辨務官及び元帥の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) に対して発令し、彼の指揮する皇帝軍は Venezia 共和国軍の支援を受けて、Mantova 公国に向けての進軍を開始する。その結果 Mantova はその年の末に至る迄 20,000 人の軍勢による包囲戦に晒される事となったが、その時皇帝軍は戦果を上げる事が出来ず、止む無く一旦撤退するという結果に終わる。

 一方今回は Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis 自らの率いる France 王国軍が、皇帝軍による Mantova の包囲を受けて、1629 年 12 月に再び上部 Italia 半島へ進軍する事になり、France との国境に近く、一時期 France 王国領でもあった Pinerolo の要塞を陥落させ、Savoia 公国領を広範囲に亘って占領する。
しかし Armand-Jean du Plessis は、皇帝軍と France 王国軍との直接の対戦は避けるべきとの考えにより、その頃皇帝軍による 2 度目の包囲戦に晒されていた Mantova を、France の軍事力を以て助ける事には踏み切らなかった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 66«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:

Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga が
Mantova 公国の統治開始に際して
発行した銀貨


銘は
NEC RETROGRADIOR NEC DEVIO
(引き下がる事無く逸れる事も無し)

1628

 

 

 

 

 

 

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