Memorandum 2020 Nr. 2
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 56
選帝侯 (第56回)
»Kurfürst Teil 55«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 1]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が 1612 年 12 月 22 日に亡くなると、その後継者となった弟の Ferdinando Gonzaga (1587–1626) に対する、皇帝 Matthias (1557-1619) による叙任が 1613 年 10 月に与えられたが、両公国に於ける 6 代目公爵への正式な即位は、その後暫く時を経た 1616 年 1 月 6 日に行われている。
Ferdinando Gonzaga は正式な公爵即位が行われた翌月の 2 月 19 日に、Mantova 公国領 Casale Monferrato 出身の Ardizzino Faà di Bruno 伯爵の娘、Camilla Faà di Bruno (1599–1662) と秘密裏に結婚した。
Camilla Faà di Bruno はこれに先立って、Savoie 公女 Margarete (1589-1655) と知り合う機会があり、Margarete が結婚していた Francesco IV. が 1612 年に、父親 Vincenzo I. Gonzaga (1562-1612) の後継者として、5 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵に即位すると、Margarete は Camilla Faà di Bruno をその侍女の 1 人として Mantova の宮廷に連れて行き、そこで彼女は Francesco IV. の弟の Ferdinando とも知り合う事となる。
Francesco IV. は父親の没後僅か 10 箇月にして、公爵に即位した同年 12 月 22 日に天然痘で亡くなる。その為に未亡人となった Margarete は先ず公国内の Goito 城に移り、その後翌年の 4 月には侍女達を伴って、故郷の Savoie 公国の首都 Torino に戻ったが、それには Camilla Faà di Bruno も同行している。
Ferdinando が Francesco IV. に次いで公爵位を継ぐ事が決まって Mantova の宮廷に入ると、彼の希望によって Camilla Faà di Bruno は、Torino から再度 Mantova に呼び戻される。
しかしその後の Ferdinando との結婚は、彼女の身分が貴族ではあり乍らも格が低く、身分不相応の結婚となる為に公開される事は無かった。
この時の結婚式は Mantova の 宮廷 Basilica Santa Barbara に於いて、Gregorio Carbonelli 師 (1561-1624) によって執り行われ、その際の証人は Ferdinando の宮廷に於ける助言者であった Alessandro Ferrari 只 1 人であった。
Camilla はこの結婚式が行われた前日の 2 月 18 日に Ferdinando より、Camilla との結婚を誓約した署名付きの文書を受け取っているが、これはこの様な出来事に於いては当時、基本的で大変重要な意味を有するものであった。
Camilla はそれでもこの結婚式が、公会議で定められていた規則に従って司祭によって執り行われた訳では無い事から、その合法性に疑いを抱いているという事を Carbonelli に打ち明けているが、Carbonelli はこれに対して、自分は宮廷 Basilica という 1 つの教区の長として、結婚式を執り行う事が特別に許可されていると答えている。そしてそれへの更なる確認として、結婚式の数日後に Ferdinando によって書かれた、両者の結婚を証する書面を残している。
その年の 6 月に Camilla は Ferdinando より、封土として Mombaruzzo と Monferrato の領地及び、侯爵夫人の称号を贈られている。
これによって Camilla は大きな金銭的収入を得る事となり、それは宮廷内のどの女性をも凌いではいたが、Ferdinando との結婚に関しては公式には誰にも知らされておらず、しかしその一方広く噂には上るという大変厄介な状況ではあった。
1616 年 7 月に Camilla の父親の Ardizzino Faà di Bruno が亡くなったのを機会に、彼女は妊娠していたにも拘らず Mantova を後にする事を考え始める。その時の法王 Paul V. (1552-1621) に対して Camillaは、自身の結婚の問題に関心を持って頂きたいという手紙を宛てた後、その年の 9 月 3 日になって遂に Mantova を後にし、兄の封土であった Bruno に短期間滞在した後、故郷の Casale に落ち着いた。
それ以後 Ferdinando とは遠く離れる暮らしではあったが、両者の間の頻繁な手紙のやり取りはこの後も続く事になる。
この先は次回
»Kurfürst Teil 57«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 3]
へ続く
上部の写真:
Mantova の宮廷 Basilica Santa Barbara
Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Guglielmo Gonzaga (1538-1587) によって
1562 年に建築が開始され 1572 年に完成
宮廷に於ける宗教儀式の際に使用されている
Montini Filippo Luigi の原画
Puzzi Lanfranco の製版による
Aquatint