Memorandum 2020 Nr. 5
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 59
選帝侯 (第59回)
»Kurfürst Teil 58«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 4]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
6 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Ferdinando Gonzaga (1587–1626) が、1626 年 10 月 29 日に 39 歳の若さで亡くなると、彼との結婚が公式に認められていた Caterina de’ Medici (1593–1629) との間には子供が無く、また Caterina との結婚の前に秘密裏に結婚していた Camilla Faà di Bruno (1599–1662) との間には、息子の Francesco Giacinto Gonzaga (1616–1630) がいたが、彼には相続権が認められていなかった。
その為に当時生存していた Ferdinando の唯一の兄弟であった Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) が、7 代目として両公爵位を継ぐ事となり、1627 年 2 月 8 日に皇帝からの叙任を受ける。
これに先立って、5 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が亡くなった際には、1607 年以来枢機卿の位階に就いて聖職界にあったその弟の Ferdinando が、その後継者となる為に 1615 年 11 月 16 日に枢機卿位を法王に返上している。その為にその枢機卿位は更にその弟の Vincenzo II. に、同年 12 月 2 日に法王 Paul V. (1552-1621) によって授けられて、兄の Ferdinando に代わって聖職界に属する事となった。
この時 21 歳であった Vincenzo II. は、Gonzaga 家の宮廷のある Mantova から離れて、そこから凡そ南西 20 km に位置する Gazzuolo に、Gonzaga 家が所有していた城館に住居を定めたが、間も無く彼は Gazzuolo から 6 km 程北西に行ったところの San Martino dall’Argine に、彼の従姉妹が住んでいる事を知りそこを訪ねる。
この従姉妹とは 4 代目 Novellara 及び Bagnolo 伯爵 Alfonso I. Gonzaga (1529-1589) の第 8 子 6 女、Isabella Gonzaga di Novellara (1576-1630) であったが、Vincenzo II. の枢機卿就任から 1 年も経たない 1616 年 8 月 23 日にこの両者は秘密裏に結婚し、カトリックの聖職者に結婚は認められていなかった為に、同年 9 月 5 日に Vincenzo II. の枢機卿位は廃位される。
美貌で知られた Isabella はこの時もその容姿を保っていたとは伝えられているが、この結婚の時点で 22 歳であった Vincenzo II. に対して彼女は既に 40 歳であり、尚且つ初婚相手との間の 8 人の子供を連れた再婚であった。
Vincenzo II. の兄の Ferdinando は当初よりこの結婚には強く反対していたが、何よりも彼が危惧したのは、Gonzaga 家の男系家族が自分の他にはこの Vincenzo II. しか生存していないので、そのどちらかに男子が生まれる事が無い場合には、必然的に近い将来家系が途絶えてしまうという事であった。
その翌年に結婚した Ferdinando と Caterina de’ Medici (1593–1629) との間にも、また元より年齢的に可能性の低かった Vincenzo II. と Isabella の間にも子供が生まれる事は無かった為に、Ferdinando のこの危惧は俄かに現実味を増して来る事となった。
そこで Ferdinando は何とかして Vincenzo II. と Isabella の結婚を無効にする事によって、Vincenzo II. に新たな結婚の道を開こうとして様々な試みを行ったが、どれも功を奏する事は無く、その為に遂には Isabella に対して魔女の訴えを起こすに至った。
1622 年に Mantova の司教区に於いて開始されたこの裁判では、Isabella を魔女と見做す証人が現れ、また Ferdinando に説得された Vincenzo II. 自身も訴える側に与した為に、望みを失った Isabella は翌 1623 年に Roma に逃れ、Vatikan の最高宗教裁判所に控訴を行った。
この控訴はその年に新たに法王に即位した Urban VIII. (1568-1644, 在位 1623-1644) によって認められて、新たな審理が開始されたが、最終的には翌 1624 年 5 月に無罪の判決を以て結審する事となった。
この様な Ferdinando にとっては大変不本意な状況の下でその 2 年後には彼が亡くなり、7 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵に就いた Vincenzo II. には、現在の結婚状態が教会によって無効とされ、新たな結婚に臨む事が出来ない限り、自分が Gonzaga 家出自の最後の公爵になるだろうという事は、十分に意識せざるを得ない状態であった。
しかしこの問題を最終的に決定する権限を有していた、Tribunal Rotae Romanae (法王裁判所) からは、結婚を無効にするという決定が届く事は無く、それに加えて未だ 33 歳であった Vincenzo II. の、健康状態が優れないという大きな問題がこれに重なる事となった。
この先は次回
»Kurfürst Teil 60«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 6]
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上部の写真:
Vincenzo II. の紋章