Kommentar 2021 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 34

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 33«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 5]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Giovanni De Gamerra (1742-1803) の台本による、2 幕の Commedia per musica „Eraclito e Democrito” に次いで Antonio Salieri (1750-1825) が取り組んだ作品は、2 幕の Dramma eroicomico „Palmira, regina di Persia” (Persia の女王 Palmira) であった。
台本は前作に引き続いて、1793 年に Austria 帝国皇帝 Franz I. (1768-1835) によって Wien の宮廷劇作家に任命された Giovanni De Gamerra (1742-1803) による。

 この作品の台本は France の哲学家で作家の Voltaire (1694-1778) が、1768 年に執筆し同年発表された啓蒙哲学書 „La Princesse de Babylone” (Babylon の王女) に基づいているが、当初は Salieri が 1784 年に初めての France 語による作品であった 5 幕の Tragédie lyrique „Les Danaïdes” 及び、それに続く 1787 年の Prolog 付き 5 幕の Oper „Tarare” によって、Paris に於いて収めた大変大きな成功が契機となり、それに次ぐ Paris で上演される為の 5 幕の „La Princesse de Babylone” として計画されていた。

 その際の台本は Voltaire の原著を基にして、France の台本作家の Désiré Martin が仕上げているが、Salieri は 1787 年 7 月に „Tarare” による予想を上回る大きな成功を見届けた後、Martin に作曲を完成させる事を 約束して、その台本を携えて Paris から Wien に戻っている。
その後の Wien に於ける „La Princesse de Babylone” の作曲は、第 1 幕がほぼ完成に近づく所迄は進められたものの、翌 1788 年 2 月になると、それ迄 Wien の宮廷楽長を務めていた Giuseppe Bonno (1711-1788) が高齢を理由にその職を辞し、Salieri がその後任として Wien の帝室宮廷楽長に任命された為に、彼は俄かに多忙を極める事となった。
更に翌 1789 年 7 月には France 革命が勃発して、最早 Salieri が Oper の上演の為に Paris に赴く事は不可能となり、この作品の上演計画は中止せざるを得ない状況となった。

 それから 6 年の時が経ち、1795 年の 1 月に初演を迎えた 2 幕の Dramma giocoso „Il mondo alla rovescia” (逆さまの世界) の場合と同様に、嘗て取り組んだものの未完成の儘放置されていた作品を再認識して、今回は Désiré Martin による „La Princesse de Babylone” の再構成を Giovanni De Gamerra に委ねた。
その結果完成されたのが 2 幕の Dramma eroicomico „Palmira, regina di Persia” であり、この作品は 1795 年 10 月 14 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて初演が行われた。

 „Palmira, regina di Persia” は Persia の宮廷を舞台とする Europe の人々にとっては異国情緒の大変豊かな筋書きであった事、駱駝迄が舞台上に登場するその豪華で壮観な舞台装置、喜劇的な要素と真剣さが交錯するその内容、また大規模な合唱による印象的な表現力も加わって、初演以来大変大きな成功を収める。
Wien の宮廷劇場に於いては、この初演から 1798 年迄の間に 39 回の公演が行われており、独語を始めとする翻訳版も含めて、間も無く Europe 中に於いてこの作品の上演が行われる様になった。

 特にこの作品中の無伴奏の男声合唱による „Silenzio facciasi” (静かにしろ) は当時の人々に大変知られるものとなり、Salieri 自身によっても管楽 8 重奏曲 „Armonia per un tempio della notte” (夜の神殿の為の Harmonie) に利用され、また新たな Text „Notte placida e tranquilla” (静かで穏やかな夜) を付されて、1807 年 4 月 13 日に 2 人目の皇妃 Maria Theresia von Neapel-Sizilien (1772–1807) を失った皇帝 Franz I. が、1808 年 1 月 6 日に Maria Ludovika Beatrix von Österreich-Este (1787-1816) と 再婚した際に、その御祝いの為に Salieri によって作曲された Kantate にも用いられている。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 35«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

Palmira, regina di Persia の
第 4 幕 第 10-11 場の為の
舞台装置


1796 年から 1805 年に至る期間
Frankfurt am Main の
舞台美術家を務めていた
Giorgio Fuentes (1756–1821)
の意匠に基づく


画家及び版画家の
Anton Radl (1774-1852) による
腐食銅版画

1852

 

 

 

 

 

 

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