Memorandum

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 76

 

 


選帝侯 (第76回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 75«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 5]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Magdeburg の包囲戦に於いて優勢な立場にあった、皇帝軍を率いる Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) は、1631 年 4 月 24 日に次いで翌 5 月 4 日に改めて、Magdeburg の防衛軍を率いる Dietrich von Falkenberg (1580-1631) と市参事会に対して降伏を要求している。
更にそれから 2 週後の 5 月 18 日になると Tilly 伯爵は、自由意志による都市明渡の最後の機会としての最後通告を行っている。

 Magdeburg の市民達は皇帝軍との交渉に向けた協議の為に近隣の領主宅に集められたが、その内 Sweden 王国軍側に与する者達は、皇帝軍との交渉に対しては厳格に反対する立場を固辞していた。
彼等は Magdeburg に近づきつつある Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる、Sweden 王国軍の本隊に大きな希望を寄せていたが、同年 4 月 13 日行われた Frankfurt an der Oder を巡る攻防戦に於いては、Sweden 王国軍が勝利を収める事は出来たものの、この戦闘による軍の疲弊は看過出来ない程大きく、そのまま敢えて Magdeburg に向かったとしても、その明らかに劣った軍勢では求められる役目を果たすのが大変困難な状況にある事から、Gustav II. Adolf は Magdeburg に対する救援を拒否している。

 Tilly 伯爵による最後通告から 2 日後の 5 月 20 日の早朝から、旧市街地と周辺地域に対する集中的な砲撃が開始され、2 時間程それが継続された後に、24,000 人余りからなる皇帝軍全軍が、市の全方向から市壁に向かっての前進を開始した。
この時市壁内で開かれていた市参事会に於いては、行政当局が降伏を提唱していた。しかし急進的な Sweden 王国軍の信奉者達と聖職者の支持を得ていた Falkenberg はこれに断固として反対し、Sweden 王国軍による間も無い援軍到着を告げていた。

 しかし市参事会に於いて Falkenberg が 1 時間にも亘ってその演説を繰り広げていた時に議会に告げられたのは、皇帝軍がいよいよ市への攻撃の為に接近して来たという知らせであったが、Falkenberg はそれにも拘らずその演説を止める事が無かったと伝えられている。
しかし St.-Johannis 教会の塔が砲撃によって破壊され、皇帝軍側の兵士達が市壁内に侵入して来た事が明らかとなって、漸く Falkenberg は部隊を率いて戦闘に向かうが、その戦いに於いて部分的には皇帝軍の市壁内への侵入を撃退する事が出来たものの、Falkenberg は間も無く銃弾に当たって戦死する。

 城壁内では既に午前中から火災が発生し、午後にはそれが次第に広がって市内中がかなり酷い状況になっていた。後の 19 世紀の歴史研究者達の間では、敗戦からは最早逃れる事が出来ないと悟った Falkenberg によって、Magdeburg が皇帝軍の手に渡る事が避けられないならば、その前に廃墟にしてしまおうという意図の下に、敢えて火が付けられたのではないかという推測がされているが、事実は明らかにはなっていない。

 この戦いに於ける勝利が確実となった皇帝軍の傭兵達には、未だその報酬が支払われていなかった為に、Magdeburg 市民の夫々の政治的な信条や異なる立場等を全く顧みる事無く、彼等はあらゆる家々から容赦無く掠奪を行い、また帝国法に於いては禁じられていたものの、それは傭兵達自身やその指揮官にさえ全く考慮される事無く、数多くの市民達がその年齢や性別に全く関係無く殺害されるに至った。

 当時敗戦者が戦勝者に対して慈悲を乞うた場合には、その者の生命に対する思い遣りを戦勝者が示して恩寵助命するという慣習があったが、それが行われる事は微塵も無く、女性や年少の子供、また妊婦であっても一切構わず、家の中でも教会に於いても、聖職者でさえもが惨殺されたと、その残虐行為が余りにも酷く広範囲に亘った為に、皇帝軍側の者によってそれ等の記録が残されている。
特に前年の年末近くより Magdeburg の市郊外に布陣していた、Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) の率いる部隊の行いが酷く、それには Tilly 伯爵指揮下の皇帝軍部隊でさえもが嫌厭した程であったと、同じ記録に残されている。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 77«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

Magdeburg の
税関の堡塁と市郊外を攻略する
皇帝軍


Basel 出身の版画家で出版者
Matthäus Merian (1593-1650)
によって刊行が開始された
Historischer Chroniken Continuation
(Theatrum Europaeum)
から


彩色版画

 

 

 

 

 

 

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