Memorandum

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 79

 

 


選帝侯 (第79回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 78«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる Sweden 王国軍は 1631 年 7 月に、Elbe 河左岸に位置する交通と物流の要衝で、同時に軍事上の重要な拠点ともなる Werben を占領し、来るべき Katholik 連盟軍との戦いに備えて、Elbe 河の堤防に迄軍勢を展開する等の周到な準備を進めた。

 翌 8 月に Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いる Katholik 連盟軍が Werben に到着すると、早速城壁外から町への砲撃を開始したが、同月 7 日に行われた Sweden 王国軍との戦闘に於いて Katholik 連盟軍は、退却を余儀なくされるという結果に終わる。
その後 Gustav II. Adolf は Elbe 河と Havel 河の間に堡塁を建造し、これを巡ってはこれ以降 10 年間に亘って、両勢力間に攻防戦が凝り返される事になる。

 Werben の戦いの後 36,000 人の兵力に迄増強された Tilly 伯爵の率いる Katholik 連盟軍は、Sachsen 選帝侯国への攻撃を開始し、同月 31 日に侯国領西部に位置する Merseburg を占領し、町は掠奪に晒されて荒廃した。
その 1 週間後の 9 月 6 日から同軍は、Leipzig を目指して東進を開始する。

 Gustav II. Adolf はこの様な Sachsen 選帝侯国の危機的状況を利用して、Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) に対して、Sweden 王国との同盟関係締結を迫った。
その結果同年 9 月 11 日に両国の間で、Hans Georg von Arnim-Boitzenburg (1583-1641) を指揮官とする、Sachsen 侯国の全部隊は Sweden 王国軍に加わり、Sachsen 侯国内にいる Sweden 王国軍の傭兵達の宿泊と食料物資の補給は、Sachsen 侯国が保障するという内容が合意されるに至った。しかし Sachsen 侯国軍に対する統帥権は、何時でもこの同盟関係を解消する事が出来る事を目的として、Sachsen 選帝侯が保持する事とされた。

 この同盟が締結された直後の同月 9 月 14 日に、Tilly 伯爵の率いる Katholik 連盟軍は、Sachsen 公爵及び選帝侯 Moritz (1521-1553) によって 1549 年に Leipzig の郊外に建造された、砲郭、堀と稜堡を伴う堅固な城塞の Pleißenburg 城を征服し、更に Leipzig の町では広範囲に亘る掠奪を行う。

 Tilly 伯爵は軍の宿営地として、Sweden 王国軍に攻撃される心配の無い、Leipzig 郊外の高台になっている場所を選んだ。そこから周辺地域の偵察を行っていた、Tilly 伯爵の副官で Katholik 連盟軍騎兵隊を率いる Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) が、同月 16 日に Sweden 王国軍の陣営を発見したが、逆に Pappenheim 伯爵とその騎兵隊も発見されて、そこから逃走する為には交戦せざるを得ないという状況になった。

 そこで Pappenheim 伯爵は本隊に居る Tilly 伯爵に対して伝令を送り、彼と彼の率いる騎兵隊を救出する為の援軍の派遣を要請した。
しかし Tilly 伯爵には、Johann von Aldringen (1588-1634) の率いる部隊が、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵の継承権を争った戦いから戻り、Katholik 連盟軍に合流して本隊が増強されるのを待ってから、Sweden 王国軍との戦いに臨むという計画があった。
実際にその頃既に Aldringen の率いる軍は、Leipzig のすぐ近く迄戻って来ているという状況であった。

 そして Tilly 伯爵は Pappenheim 伯爵の衝動的無分別で勝手な行動に大変憤りはしたものの、最終的には Pappenheim 伯爵の要求を受け入れる事を決意し、Katholik 連盟軍の 40,000 人の兵士達を Pappenheim 伯爵の求める、Leipzig 郊外北方の Breitenfeld 村と Seehausen 村の間の地域に移動させた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 80«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:

Pleißenburg 城


Leipzig

1642

 

 

 

 

 

 

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