Memorandum 2023 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 81

 

 


選帝侯 (第81回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 80«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1631 年 9 月17 日に Sachsen 選帝侯国領 Leipzig 北方郊外の Breitenfeld 村と Seehausen 村の間の地域で対峙した、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いる Katholik 連盟軍と、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の指揮する Sweden 王国軍及び、Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) の率いる、Sachsen 選帝侯国軍による連合軍の間で行われた戦いでは、先ず最初に双方の砲兵と銃兵による砲撃と射撃から開始されたが、数時間の内に Katholik 連盟軍に対する Sweden 王国軍の火力の方が、明らかに優勢な事が明らかになった。

 その後 Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) の率いる Katholik 連盟軍重装騎兵部隊が、Sweden 王国軍を大きく取り囲む様にして出撃する。Sweden 王国軍はそれに対して銃兵、歩兵と騎兵による混合した兵力で対抗しようとしたが、その際に Sweden 王国軍の銃兵が Katholik 連盟軍騎兵部隊の馬を集中的に狙撃し、銃の装填の間長槍歩兵の後ろに隠れるという戦法を採った。一方 Katholik 連盟軍重装騎兵部隊の方は銃兵による援護を受けていなかった為に、銃撃によって騎兵とその馬は大きな被害を受け、この戦いが暫く続いた後彼等は自分達が次第に包囲されて来ている事に気付き、漸くの思いでそこから脱出しなければならない様な状況に陥った。

 左翼に位置していた Katholik 連盟軍騎兵部隊の攻撃に対して、Sweden 王国軍が全勢力を以て戦っているのを見て取った Tilly 伯爵は、Hans Georg von Arnim-Boitzenburg (1583-1641) と Hans Caspar von Klitzing (1594-1644) を指揮官とする、Sachsen 選帝侯国軍を攻撃する絶好の機会だと考えた。
Sachsen 選帝侯国軍の傭兵は、この戦いの間近に募兵された経験の浅い者達が多かった。彼等は最初その割には勇敢に戦っていたものの、Katholik 連盟軍の銃兵による激しい砲撃の下、密集隊形を取った部隊の攻撃に晒されると、最前列から倒れ始めて隊形が次第に揺らぎ始め、Heinrich von Holk (1599-1633) の率いる Croatia 軽騎兵部隊が本格的に攻撃を開始すると、次第に戦列から逃げる者が出始めた。

 この時最初に逃走を始めたのは砲兵であったが、その後に残された大砲は Katholik 連盟軍の支配するところとなり、直ちに Sachsen 選帝侯国軍騎兵部隊への攻撃に向けられた。
この騎兵部隊を率いていた Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. はその為に、戦場から北東に凡そ 20 km も離れた Eilenburg に迄逃亡した。
選帝侯自身が前線から逃げてしまった事によって、司令官の Hans Georg von Arnim-Boitzenburg にとっては最早、未だ残っていたその他の騎兵や歩兵達の逃走を阻止する手立ては無く、Sachsen 選帝侯国軍の隊形を保つ事は最早不可能となった。この時に逃走して行った兵士達はその際に、Sweden 王国軍の布陣の背後に控えてあった補給の為の物資の略奪を行っている。

 Tilly 伯爵はそこで、揺らぎ始めて部分的には既に崩れている Sachsen 選帝侯国軍の戦列に向けて、Katholik 連盟軍の歩兵部隊を進軍させた。それに伴い騎兵部隊の方は時折 Sweden 王国軍の背後に回り込む事が出来、それ迄は優勢に戦いを進めて来た Sweden 王国軍の方が今度は守勢に立たされる事になった。
しかし Sweden 王国軍の銃兵と騎兵による戦陣は堅固であった為に、Katholik 連盟軍騎兵部隊は再びその銃撃に晒される事になる。

 当初は太陽と風を背にして有利な方向に布陣していた Katholik 連盟軍にとって、戦闘が継続する事によって状況は変化して行く事となった。午後になって時間が経つ毎に太陽高度は下がって方向が逆転し、Katholik 連盟軍にとって次第に眩しくなって来た。又風もそれと同時に風向を変えて、それ迄は流されて来る戦場の塵や埃と煙が Sweden 王国軍にとって大きな弊害となっていたが、これが今度は Katholik 連盟軍に向かって流れるて行く様になっていた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 82«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:


Leipzig 北方郊外の
Breitenfeld, Wiederitzsch, Seehausen, Podelwitz, Zschölkau
の村の近くに布陣した両軍の鳥瞰図


匿名の作者による銅版画

1632

 

 

 

 

 

 

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