Memorandum 2021 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 66

 

 


選帝侯 (第66回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 65«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1629 年 12 月に Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) の率いる France 王国軍は、Savoia 公国の要塞があった Pinerolo を陥落させ、Savoia 公国を広範囲に亘って占領下に置いたが、皇帝軍との直接の軍事衝突は避けるべきとの考えから、皇帝軍による包囲戦に晒されていた Mantova 公国の救援には向かう事はしなかった。

 皇帝首席辨務官及び元帥の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) の指揮する皇帝軍が、1629 年秋からの Mantova 公国の包囲戦で中々戦果を上げる事が出来ず、翌年 3 月に一旦軍勢を引き上げるが、同年 6 月になって再度皇帝軍は Mantova へ向けて出撃する。この 2 回目の Mantova 包囲戦では、Collalto 伯爵 Rambold XIII. が病気になったため、その部下の Johann von Aldringen (1588-1634)、Matthias Gallas (1588-1647) と Octavio Piccolomini (1599-1656) の 3 人の部将が皇帝軍を率いる事となった。

 Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) が、Mantova 公国の皇帝軍からの防衛の為に当てにしていた France 王国軍の助けを得る事は出来なかった上に、Mantova では Pest の感染に襲われて軍勢が大幅に弱体化してはいたものの、21,000 の歩兵と 9,600 の騎兵を擁していた Mantova の軍勢に対して、皇帝軍はこの時僅かに 1,000 の歩兵と 500 の騎兵しか動員されていないという大変劣勢な条件であった事もあり、Mantova 軍は皇帝軍による城壁の門からの侵入を図ろうとする攻撃に対して、何度も持ち堪える事が出来た。

 しかし同年 7 月 17 日の夜に予期せぬ、帝室枢密顧問官の Rudolf von Colloredo (1585-1657) が率いる帝国第 45 歩兵連隊による攻撃を San Giorgio 門に受け、更に増強された他の部隊による攻撃によって Mantova の防衛軍は要衝各地に分散させられた。San Giorgio 門への跳ね橋が Suisse 傭兵の一将校の裏切りによって降ろされると、San Giorgio 橋に待機していた皇帝軍が一気に Mantova の市内に攻め入り、Carlo I. Gonzaga とその家族は Mantova から逃亡せざるを得なくなる。

 翌 7 月 18 日には Aldringen、Gallas、Piccolomini の 3 人の部将による Mantova の略奪が行われ、1328 年以来 Gonzaga 家の居城であった公爵宮殿からは、長年に亘る治世の間に Gonzaga 家が集めて来た絵画、彫刻、宝石、豪華な家具類、Tapisserie、金銀製の食器等、また Italia 半島内で最も蔵書の豊かなものの一つと言われていた図書館からは、それ迄に Gonzaga 家が輩出した数多くの枢機卿達が蒐集して来た、大変貴重な自筆稿や写本類等が何台もの馬車に積み込まれて運び出された。
また市中でユダヤ人が営んでいた質屋も掠奪を受け、殺された市民も数多く、町の各所には火が放たれて、その後 Mantova には Pest が一層蔓延する事となった。

 一方 1559 年に France 王国と España 王国の間に締結された第 2 次 Cateau-Cambrésis の和約によって、それ以来 Gonzaga 家の支配下にあった Monferrato 公国の首都の Casale には、1629 年 3 月 11 日に France 国王 Louis XIII. (1601-1643) と、Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) との間に締結された Susa 条約によって、Savoia 公国領内を通過して Casale に至った、翌 1830 年には最高位の Maréchal de France を与えられる事になる、Jean de Saint-Bonnet de Toiras (1585-1636) の指揮する France 王国軍 が、1629 年 3 月 18 日以来駐屯していた。

 Casale は Susa 条約が締結される迄、Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) の率いる España 王国軍によって包囲戦に晒されていたが、Maratra 侯爵は Susa 条約を是認して、España 王国軍は Milano 公国へ引き返していた。しかし 1630 年の春になると今度は、Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる España 王国軍が、改めて Casale に進軍してそこを包囲する事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 67«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:

画家で建築家の
Antonio Maria Viani (ca. 1550 – ca. 1635)
の設計と装飾による 「鏡の間」


公爵宮殿

Mantova

 

 

 

 

 

 

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