Musik 2022 Nr. 3
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 36
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 35«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 2]
より続く
Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1813 年に厳しい経済的困窮状態にあった際に、1,500 Gulden を貸与してそれを助けた Sigmund Anton Steiner (1773-1838) に対して、その返済として現金に代わり 13 の自作品の出版権を譲る事としたその内の 1 作品として、1812 年に完成された Symphonie in F-dur (Nr. 8, op. 93) は、Lithographie を発明した Alois Senefelder (1771-1834) が Wien に於いて開設した印刷所を買い取って、楽譜出版業を始めたばかりの Steiner によって出版される運びとなった。
1815 年 2 月 1 日に Beethoven が Steiner に宛てた、調子が良い時の彼特有の大変陽気な気分に溢れた手紙が残されているが、その中で Beethoven は、Steiner に出版を委ねる作品の Klavier 編曲譜に関しては、Steiner 自身がその手配をして費用も負担して貰いたいと願い、またそれと共に弟 [Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) ] がその息子 [Karl van Beethoven (1806-1858) ] の為に必要としているので、Clementi [Muzio Clementi (1752-1832) ]、Mozart [Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) ] と Haydn [Joseph Haydn (1732-1809) ] の Klavier の為の作品集を送って貰いたいと頼んでいる。
この時に Beethoven が Steiner に Klavier 編曲譜の作成を委ねた作品は、この後同年 5 月 20 日に Beethoven と Steiner の間に交わされた出版契約から、Wellingtons Sieg oder die Schlacht bei Vittoria (op. 91)、Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92)、Symphonie in F-dur (Nr. 8, op. 93) と、Terzett für Sopran, Tenor und Baß mit Orchester, „Tremate, empi tremate“ (op. 116) の 4 曲であろうと推定されている。
Wien に於いて Symphonie in F-dur (Nr. 8, op. 93) とその他の作品が Sigmund Anton Steiner の下で出版される運びになると、同時に Beethoven はこれ等の作品を London に於いても出版しようと考え、Johann von Häring の手を借りて、England の George Smart (1776-1867) に宛てて手紙を送っている。
Johann von Häring は若い時に England で暮らしていた事があり、この頃は Wien に於いて England 様式による木綿の織物工場を、Franz Joseph Breuß von Henikstein と共同経営しており、その為に商用で England との密接な関係があって、英語も良く出来た。一方 Beethoven は伊語や仏語に関しては堪能であったものの英語は全く出来なかった為に、England の音楽家や出版関係者等と通信を行う際には、しばしば Häring の助力を得ていた。
一方楽譜出版業を営んでいた同名の父親の下に生まれた George Smart は、Chapel Royal の合唱隊の一員として音楽活動を開始し、1791 年に St. James’s Chapel の Orgel 奏者に就任、また Johann Peter Salomon (1745-1815) の主催する演奏会では Violine 奏者として演奏に参加し、併行して Orgel と声楽の教師としても活動していた。
その後 1822 年に Chapel Royal の Orgel 奏者に任命された一方、同時に指揮者としての活動も 1840 年に至る迄続けている、
George Smart はまた Joseph Haydn を始めとする数多くの同時代の高名な作曲家達との知己を得ており、Beethoven もその内の一人であった。
1826 年初頭に既に結核を発症して体力が落ちていたにも拘らず、自作の 3 幕の Romantic Opera „Oberon, or The Elf King’s Oath” の初演の為に London に渡った Carl Maria von Weber (1786-1826) は、同年 4 月 12 日に Royal Opera House in Covent Garden に於いて行われた同作の初演を成功に導きはしたものの、約束していた更なる公演とその他の演奏会も行った事によって体力を消耗し、5 月になると病状は生命を脅かす程に悪化する。翌 6 月 7 日には London を発って帰途に就く事を計画するもののそれが叶う事は無く、6 月 5 日に Weber は London に於ける滞在先であった George Smart の家で亡くなっている。
Beethoven
による
Sigmund Anton Steiner に宛てた
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 37«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 4]
へ続く
上部の写真:
George Smart
John Cawse (1778-1862) の原画に基づき
Ebenezer Stalker (1781-1847) による
Mezzotint
19 世紀初頭