Musik 2022 Nr. 5
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 38
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 37«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 4]
より続く
Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1815 年に、Wien の Sigmund Anton Steiner (1773-1838) に対してその出版権を譲り渡した合計 13 の作品の内 9 つの作品については、同時に London に於いても出版する事を目論んで、英語が堪能であった Johann von Häring の手を借りて 1815 年 3 月 16 日に書いた、同地の出版社への仲介を依頼する手紙を London の George Smart (1776-1867) に送っているが、同年 6 月 1 日には同様の趣旨の手紙を、同じく London の Johann Peter Salomon (1745-1815) にも送っている。
Johann Peter Salomon は 1745 年 2 月に Beethoven と同郷の Bonn に生まれ、1758 年から 1764 年迄の期間同地に於いて選帝侯の宮廷楽団の Violine 奏者を務める。その後 1752 年から Brandenburg 辺境伯領の Rheinsberg に居城を構えていた、 Heinrich von Preußen (1726–1802) の宮廷楽団の Konzertmeister に就任する。
Heinrich von Preußen は Preußen 国王 Friedrich II. (1712-1786) の弟であり、Rheinsberg 城は Friedrich が 1740 年に国王に即位する迄その居城としていた。Friedrich II. は後に Rheinsberg に住んでいた時を、自身の人生の中で最も幸せな時代と回想している。
その間 Johann Sebastian Bach (1685-1750) の第 2 子次男の Carl Philipp Emanuel Bach (1714-1788) は、宮廷 Cembalist として Rheinsberg に於いて Friedrich に仕えている。
Salomon はその後 1781 年になると London に渡って Violine 奏者として活動し、また同時に演奏会の興行にも従事した。
後の 1790 年に Esterházy de Galantha 侯爵家の宮廷楽団が解散される事になって、それ以降独立した作曲家という立場になった Joseph Haydn (1732-1809) を、Salomon は 1791 年から 1 年半程の期間及び、その大きな成功を受けて更にもう 1 度 1794 年からは 1 年半以上の期間に亘って London に招き、この時の Haydn の演奏旅行は Hob. I:93から I:104 迄の彼による最後の 12 曲の Symphonien とその他の作品が作曲される機会となった。
Salomon は後に Beethoven の生家となる Bonngasse の Haus Nr. 515 で生まれており、Beethoven 一家と Salomon は Bonngasse の隣人であって親しい関係にあった。Salomon が Bonn の町を後にしたのは Beethoven の誕生前ではあったが、その後も何度か Bonn を訪れており、Ludwig とも個人的な面識があった。
また Ludwig が Wien に出てから暫くの期間 Joseph Haydn に対位法を習う為に師事していたという事もあり、それに先立つ Haydn と Salomon の関係から、彼が今回の London の出版社への仲介を依頼する手紙を Salomon に書く経緯となった。
Salomon に宛てた手紙の中で Beethoven が London の出版社に売るつもりで提示している作品は、同年 3 月に George Smart への手紙で列挙した 9 作品の内 6 つの作品と、Sigmund Anton Steinerに売り渡した作品群には含まれていたが、George Smart には提示しなかった Fidelio, Oper (op. 72c) と Der glorreiche Augenblick, Kantate (op. 136) を加えた合計 8 つの作品で、その内の 5 作品に関しては Smart の際と同様に、Beethoven の希望する売渡価格が併記されている。
それに次いで Beethoven はこの手紙の中で、彼の生徒の Ferdinand Ries (1784-1838) を通して、Johann Baptist Cramer (1771-1858) が Beethoven の作品に対して否定的な意見を公にしたという事を知ったと伝えている。
Johann Baptist Cramer の父親で Mannheim の宮廷楽団の Violine 奏者であった Wilhelm Cramer (1746-1799) は、1772 年 11 月 5 日に Pfalz 選帝侯 Karl IV. (1724-1799) の招きによって、Johann Sebastian Bach の 6 男の Johann Christian Bach (1735-1782) による Oper „Temistocle” が、Mannheim の宮廷劇場に於いて初演された際に、London に於いて活動を行っていた Johann Christian Bach と知り合った事が契機となって、1773 年に家族共々 London に移住している。
Wilhelm はその後 London に於いて宮廷の演奏会を指揮し、伊語劇場の指揮者に就任する等、指揮者として当地でその他にも広範囲に活動する。
一方 Johann Baptist は Conservatoire de Paris、及び London では Muzio Clementi (1752-1832) に師事して Klavier 奏者となり、London を拠点として活動を行っていた。数年間に亘る Europe 演奏旅行中には Wien に於いて Beethoven とも知り合っているが、その Johann Baptist Cramer についてここで Beethoven が敢えて Salomon に対して言及しているのは、この頃 Cramer は London に於いて演奏家としての活動以外に、Klavier 製造業と並んで楽譜出版業も同時に営んでおり、その分野でも広く成功を収めていた事が Beethoven の頭にあったからであった。
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 39«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 6]
へ続く
上部の写真:
Rheinsberg 城
Friedrich が居城としていた間に
それ迄平屋建てであった Rheinsberg 城は
Preußen の建築家
Johann Gottfried Kemmeter (17世紀末-1748) と
Georg Wenzeslaus von Knobelsdorff (1699-1753) によって
大規模に増改築された
Friedrich-Rokoko 様式の最初の建築物とされている