Musik 2020 Nr. 8
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 25
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 24«
[Archiv / Musik 2020 Nr. 7]
より続く
1813 年 4 月 14 日に Ludwig van Beethoven (1770-1827) が Austria 大公 Rudolph (1788-1831) に宛てた手紙によって、当初はその翌日に予定されていた Symphonie in A-dur (op. 92) と Symphonie in F-dur (op. 93) の、Orchester による試演は延期される事となった。
その延期された試演が未だ行われていないその 2 日後に、Beethoven はもう一度これ等の Symphonie に関係はするが、試演とは別の要件で再び Rudolph 大公に手紙を書いている。
その手紙の中で Beethoven は、以前に考えて実際に申し出ていた、Graz の Ursula 修道院女子学校の慈善演奏会の為に、未だ初演を迎えていなかった上記 2 曲の新作の Symphonie を提供するという計画は、断念せざるを得なくなったという事を伝えている。
それはこの時期の Beethoven の経済状態が大変苦しい状況にあったというのが理由だが、その原因としては先ず、1809 年に Beethoven に対して合計で年額 4,000 Florin の終身年俸を支払うという契約を締結していた 3 人の貴族の内の 1 人、Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) が 1812 年の秋に、Praha の北方に位置する Veltrusy の領地を視察していた際に落馬し、その事故が原因でその後間も無い同年 11 月 3 日に亡くなっていたために、Kinsky 侯爵が分担していた年俸 1,800 Florin の支払いが途絶えていたという事がある。
これに加えて、兄の Ludwig を追う様にして Bonn から Wien に出て暮らしていた、Beethoven の弟の Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) が 1812 年末に結核を発病し、その治療費用を Ludwig が支払わなければならないという負担も重なっていた。
Beethoven が上記の手紙を Rudolph 大公に宛てて書く 4 日前の 4 月 12 日に、Kaspar Anton Karl は自分が死ぬ事となった場合には、配偶者の Johanna van Beethoven (1786-1869) では無く兄の Ludwig を、当時 6 歳であった息子の Karl van Beethoven (1806-1858) の親権者とするという事を定めている。
ここで今回の Rudolph 大公宛ての手紙の文面は本題に入って行く訳だが、Beethoven はこういう状況下にあって、今後の生存の為に求められているのは最早慈善演奏会への作品の無償提供では無く、自身の [利益の] 為に 2 回の演奏会を開催する事が必要であるという結論に達する。そしてその会場としては今回の企図に鑑みれば、大学の大講堂が最も都合が良く、また最も名誉ある会場だという事を説明する。
そこでその会場の使用許可を得る事が出来る様に、Rudolph 大公の侍従長であった Schweiger von Lerchenfeld 男爵 Franz Joseph (1739-1813) を通して、その時の Wien 大学学長であった Franz Xaver Matoschek に一言だけ言って貰えないでしょうかという事を、凡そその頃の最大級に丁寧な文章を以て Rudolph 大公に頼んでいる。
今回の演奏会開催という計画について Beethoven は、どうしても実現させたいという意志を有していた様で、上記の充分にしっかりとした手紙を書いた同日に、Schweiger von Lerchenfeld 男爵にも手紙を書いて、Rudolph 大公に頼んだ内容を伝え、若しそれが望んだ通りに行かない様であったら、この自身と自分の芸術にとっての致命的な状況から脱する為に、更に [別の会場を] 探す事が出来る様に、出来るだけ速やかに大公の判断を知らせて貰いたいという事を頼んでいる。
しかしこの時の Beethoven の期待と希望には叶わず、早くもこれ等 2 通の手紙を書いた翌日の 4 月 17 日には、大学大講堂の使用許可の申請が拒否されたという知らせが Beethoven の許にもたらされる。
そしてその翌日に彼は再び外出する事が出来ない程体調を崩してしまい、更にその翌日にもまだ回復しなかったので、親友の 1 人の Nikolaus Zmeskall von Domanovecz (1759-1833) に手紙を書いて、恐らく後は [市内の演奏会の会場として] Kärntnertortheater [宮廷劇場の1つ] か Theater an der Wien しか残らないが、[それが若し使えたとしても] 1 回の演奏会しか出来ないだろうという見通しを述べ、それ等全てが駄目な場合には [郊外の] Augarten に避難先を見出すしかないが、そこならば当然 2 回の演奏会が [開催] 出来るでしょうが、それについてどう思うか少し考えて意見を知らせて貰いたいという相談を持ち掛けている。
Ludwig van Beethoven
による
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 26«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 1]
へ続く
上部の写真:
Beethoven が演奏会場として希望した
旧 Wien 大学の新講堂
Austria の水彩画家 Ernst Graner (1865-1943)
による水彩画
1813