Memorandum 2021 Nr. 8
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 70
選帝侯 (第70回)
»Kurfürst Teil 69«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 7]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Savoia 公国の Cherasco に於いて 1631 年 4 月 6 日に、神聖 Roma 帝国皇帝 Ferdinand II. (1578-1637)、France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-1643) と Savoie 公爵 Vittorio Amedeo I. (1587-1637) の、夫々全権を委任された使節によって締結された第 1 次 Cherasco の和平条約に続いて、同年 6 月 19 日には更にその合意の内容を再確認し、また具体的な軍隊の撤退の仕方を定める第 2 次和平条約が締結されている。
この両和平条約によって、Gonzaga 家が支配して来た Mantova 公国及び Monferrato 公国統治の、後継権を巡る争いは最終的に終結する。
この和平条約の合意によって France 王国は、Wien 及び España 王国系の両 Habsburg 家による長期に亘る支配以降初めて、Italia 半島北部に進出の拠点を築く事が出来る事となったが、それに加えて 1631 年 3 月 31 日に結ばれた秘密条約に於いて Savoie 公爵 Vittorio Amedeo I. が、1536 年から 1574 迄の短期間一時的に France 王国の支配下となった事のある Pinerolo を、代償は得るものの割譲を義務付けられた事によって、更に France 王国による Italia 半島への影響力は強化される事となった。
しかし Vittorio Amedeo I. にとってはこの Pinerolo の損失を除外すれば、Savoie 公爵家が長年に亘って領有権を主張して来た Monferrato 公国の、凡そ半分とはいえ Trino と Alba を含むその領土を遂に獲得する事が出来るという大きな成果があった。但しその住民は長年の戦争と Pest の蔓延によって大きな痛手を被っていた。
Cherasco の和平条約に於ける合意に基づいて、1631 年 7 月 2 日に Ferdinand II. より Mantova 公国及び Monferrato 公国を封土として与えられ、1627 年 12 月 25 日に亡くなった Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) の後継者として、遂に正式にその統治権を継ぐ事が認められるに至った Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) にとっては、Monferrato 公国の凡そ半分の領土を失い、今回の戦争の主な戦場となった Mantova 公国については、Luzzara、Dosolo、Reggiolo と Solara が Guastalla 公爵 Cesare II. Gonzaga (1592–1632) に与えられ、それ以外の領地に関しても戦争と Pest による大幅な人口減少、及び町の深刻な略奪と大規模な破壊によって、その統治力は公国独自の政治的自立が難しくなる程に弱められる結果となった。
France 王国の外交使節が招かれて、最終的に Cherasco の 2 つの和平条約に終結する事になった、Mantova 及び Monferrato 公国を巡る戦争を終結させる為の和平交渉の場となった、Regensburg に於ける選帝侯会議が開催された 1630 年に先立っては、1629 年 3 月 6 日に皇帝 Ferdinand II. によって復旧勅令が発布されており、また同年 5 月 22 日に神聖 Roma 帝国と Denmark 王国との間に Lübeck の和約が締結されて、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) との戦争は、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いる皇帝軍とカトリック連盟軍の、全面的勝利を以て終結を迎えていた。
1629 年の復旧勅令は、1521 年 5 月 8 日に Martin Luther (1483-1546) を帝国平和喪失刑に処し、その教えの講義と布教を禁じた Worms の勅令以来初めて、選帝諸侯の同意を得る事無く帝国法として発布された勅令であり、その内容は帝国内教会領の支配状況を、1552 年8 月 2 日に Passau 条約が締結された時点の状態に戻すというものであったが、その勅令が実施されれば結果としては、帝国内に於ける大規模な所有関係の変更が生じる事となる。
復旧勅令が発布された 1620 年代の終わり頃、神聖 Roma 帝国領の北部に於いてプロテスタントの勢力は、皇帝軍及びカトリック連盟軍に対して壊滅的な敗北を喫しており、帝国領内に於けるカトリック勢力のこの様な圧倒的に優位な状況を利用して、これ以後の長期的な視野に立ったカトリックの支配を強化するというのが、 Ferdinand II. によるこの勅令の目的であった。
この先は次回
»Kurfürst Teil 71«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 1]
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上部の写真:
復旧勅令に対する風刺画
Regensburg の町に
法王と Jesus 会総長が
修道士と Jesus 会士を吐き出しており
プロテスタントの信者等は
町から逃げ出して行く
1629