Memorandum 2022 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 77

 

 


選帝侯 (第77回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 76«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Magdeburg を巡って 1631 年 5 月 20 日に行われた、Dietrich von Falkenberg (1580-1631) を指揮官とする Protestant 側の Magdeburg 防衛軍と、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) 及び Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) が率いる Katholik 連盟軍と皇帝軍による戦いは、同日中に決着が付き皇帝軍の決定的な勝利に終わった。

 Magdeburg の裕福な市民達は皇帝軍の兵士に多額の支払いをする事によって自由を買い、彼等の庇護の下に安全に市を去る事が出来たが、それ以外の市民達は特に Pappenheim 伯爵指揮下の傭兵達による略奪と虐殺に遭い、また既に同日の午前中から起こり、その後市全域に迄広がって酷くなる一方であった火災の被害に遭う者も多く、それ等によって最終的には市民全体の 3 分の 2 迄の人々が命を失っている。
この火災については双方の陣営が、互いに相手側の放火を主張して非難し合う事となった。
散発的な戦闘と掠奪はこの後、Tilly 伯爵が停止命令を下す 5 月 24 日迄数日の間続いた。

 この頃 Magdeburg の大聖堂には数千人の女性や子供達が戦禍を逃れて隠れていた。
この大聖堂は Magdeburg 大司教区の司教座聖堂として 13 世紀の初頭から建築が開始され、1363 年に奉献された、独語圏に於ける最初期の Gothic 様式による聖堂だが、宗教改革運動が始まると Magdeburg は Protestant 勢力の牙城の 1 つとなり、1545 年に大司教 Albrecht IV. (1490-1545) が亡くなると、それ以後 20 年間以上に亘って閉鎖され、その後 1567 年以降は Protestant の聖堂として使用されていた。

 しかしこの時の戦いで Protestant 勢力が完敗した事から、嘗ての様にこの大聖堂は再び司教座聖堂に戻る訳で、その為に Katholik の Tilly 伯爵及び Pappenheim 伯爵の率いる皇帝軍が、これを損傷したり掠奪の対象とする事は全く許される事では無かった。
Prémontré 派修道会に属していた修道院 „Unser Lieben Frauen” に関しても事情は全く同様で、皇帝軍による特別な配慮が与えられ、その為戦禍による損傷は比較的少なく、傭兵の掠奪からも保護された。

 大聖堂に逃げた人々は 1 日中食料や飲料水が無い儘にそこに籠っていたが、5 月 22 日になると Tilly 伯爵は部隊に命じて、Kommissbrot [軍用のパン] を彼等に配り与え、又市民の男達を司教館に集めて、健康で活動出来る者に大聖堂の掃除をして清潔にする様に指示を下したという事が、同時代の記録に残されている。
同月 25 日にはこの大聖堂に於いて、宗教改革運動が始まって以来初めて、Tilly 伯爵も臨席した上で、Katholik による Missa が執り行われている。

 5 月 20 日に行われた戦闘の結果 Magdeburg では、傭兵による虐殺と大規模な火災の被害に遭って、凡そ 20,000 人に及ぶ市民が亡くなっている。
それ以外の命を取り留めた者達も、市内の生活基盤が破壊された為に、市内から退去せざるを得ないという様な状況であった。また市内に敢えて留まった者達の中でもその後に発生した疫病により、更に死者数は増加した。
この戦い以前には凡そ 35,000 人であった Magdeburg の人口は、1639 年には僅か 449 人に迄減少し、独語圏の重要な都市の 1 つであった Magdeburg が再興する迄には、これ以後数世紀もの時間を要する事となり、その人口がこの時の戦い以前の状態に戻ったのは、漸く 19 世紀に至ってからの事であった。

 この時の Magdeburg の惨劇は 30 年戦争中に於ける最も大規模で最も酷いものとなり、その様子を伝える何百もの Pamphlet や散らしが作成されて配布され、反 Katholik 運動の大変効果的な手段として Protestant 側によって利用された。
またこれ以後 「 Magdeburg 化」 という言葉は独語に於いて、「完全に破壊する」、或いは 「滅却する」 の類義語として使用される様になった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 78«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:

Magdeburg を巡る攻防戦


1631

 

 

 

 

 

 

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