Kommentar 2020 Nr. 3

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 23

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 22«
[Archiv / Kommentar 2020 Nr. 2]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Lorenzo Da Ponte (1749-1838) が 1787 年に並行して制作していた 3 作品の内、Vicente Martín y Soler (1754-1806) による 2 幕の Dramma giocoso „L’arbore di Diana” (Dianaの木) と、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) による 2 幕の Dramma giocoso „Il dissoluto punito ossia Il Don Giovanni” (処罰された放蕩者、又は Don Giovanni) の、2 つの作品の初演を共に成功裏に終わらせた後、最後に残ったのが Antonio Salieri (1750-1825) による 5 幕の dramma tragicomico „Axur, re d’Ormus” (Ormus の王 Axur) であった。

 Salieri が上記の作品の初演の準備に取り掛かっていた間の 1787 年 11 月 15 日に、Christoph Willibald Gluck (1714-1787) が Wien に於いて亡くなる。
Salier は彼が未だ 15 歳であった 1766 年初旬に、当時 Wien の宮廷作曲家であった Florian Leopold Gaßmann (1729-1774) に招かれて、Venezia から Wien に移り住んでいたが、その 3 年後の 1769 年に Gluck と知り合って以来その後の生涯に亘って、Gluck は Salieri にとって最も重要な後援者であり且つ友人でもあった。

 Gluck は Austria 大公女 Maria Antonia (1755-1793, 後の Marie Antoinette) の声楽の教師をしていた事から、彼女が 1770 年 5 月 16 日に、France 王国王太子 Louis-Auguste de France (1754-1793, 後の France 国王 Louis XVI.) と結婚すると、彼女の庇護を得て Opéra de Paris との間に、先ずは Oper 6 作品を作曲上演する契約を締結し、それ以来 Paris を中心に活動して成功を収めていた。
彼はその間の 1774 年に一度 Wien に戻り、Austria の帝室王室宮廷作曲家に任命されると、それ以降は Paris と Wien の間を行き来し乍ら、Europe 中に名を知られる作曲家として活動を続けていた。

 しかし Gluck はその後 1779 年 7 月 30 日に、Prolog 付き 3 幕の Drame lyrique „Echo et Narcisse” の練習中に、最初の脳卒中の発作を起こし、同年 9 月 24 日にこの作品の初演を成功裏に終えると最終的に Wien に戻る。
その後の Paris に於ける Gluck の後継者として彼が選んだのが Salieri であったが、1783 年に François-Louis Gand Le Bland Du Roullet (1716-1786) と、Jean-Baptiste-Louis-Théodore de Tschudi (1734-1784) による、5 幕の Tragédie lyrique „Les Danaïdes” の台本を託して、Salieri にその作曲を委ねた。

 最初この作品の音楽は Gluck と Salieri の両者による共作として発表され、そのまま 1784 年 4 月 26 日の Opéra de Paris に於ける初演を迎える事となったが、それが圧倒的な成功を収めた事を見届けると Gluck は、Paris の高名な „Journal de Paris” 誌上に於いて、„Les Danaïdes” は実際には先に公表されていた様に共作では無く、Salieri 単独の作曲による作品である事を発表した。

 この „Les Danaïdes” による大変大きな成功によって、Salieri はその後 Opéra de Paris より作品の委嘱を受ける事となり、先ず最初の作品として 1786 年に、2 つの Intermède 付き 3 幕の Tragédie lyrique „Les Horaces” を完成させ、それに次いでその翌年には Prolog 付き 5 幕の Oper „Tarare” が、1787 年 6 月 8 日に初演を迎えた。

 Pierre Augustin Caron de Beaumarchais (1732-1799) の台本に基づき、大変大規模な編成を必要とするこの „Tarare” の Paris に於ける初演と、それに続く公演が大きな成功を収めているという知らせが、間も無く Wien にも届いた事によって、甥で後に皇帝 Franz II. となる Austria 大公 Franz Joseph Karl (1768-1835) と、Elisabeth von Württemberg (1767–1790) との結婚の御祝いの為というのが直接の機会であったが、Wien の伊語劇場の為に、„Tarare” の伊語による上演を望んだ皇帝 Joseph II. (1741-1790) によって、Salieri に „Tarare” の改作版制作の依嘱がもたらされる事となった。

 こういう経緯によって、改作とは言っても原作の台本が翻訳された訳では無く、今回は Wien の伊語劇場帝室詩人の Lorenzo Da Ponte (1749-1838) によって、大筋を保持し乍らも全編に亘って新たに書き直された台本が作成され、その結果と更には Paris と Wien に於ける対照的な音楽様式の違いから、音楽も殆どの部分に亘って新たに作曲し直されて、新たな作品として生まれる事になったのが、上記の 5 幕の dramma tragicomico „Axur, re d’Ormus” であった。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 24«
[Archiv / Kommentar 2020 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:

France の建築家及び室内装飾家
Charles Percier (1764-1838)
による
Opéra de Paris に於ける
„Tarare” の
舞台装置の為の下絵


1795


この時期 Charles Percier は
Opéra de Paris の
舞台監督を務めていた

 

 

 

 

 

 

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