Musik 2021 Nr. 5
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 30
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 29«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 4]
より続く
1809 年に Ludwig van Beethoven (1770-1827) は、合計で 4,000 Gulden の年俸をそれ以降毎年得る事が出来るという契約を 3 人の Wien の貴族との間に結んだものの、1813 年の時点で実際に支払われていたのは、Austria 大公 Rudolph (1788-1831) が分担していた 1,500 Gulden のみという状況であった。
これに加えて、1794 年に Ludwig を追う様にして Bonn から Wien に出て来て暮らしていた、弟の Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) が 1812 年末に結核を発病し、その翌年には病状が悪化して、その治療や配偶者の Johanna Reiß (1786-1868) と、6 歳になるその息子 Karl (1806-1858) の生活を援助する為の費用を Ludwig が負担する必要に迫られ、この頃の彼の経済状況は大変逼迫した状態にあった。
年俸契約に関しては、Napoléon 戦争に起因する経済不況と財政難によって、Austria 帝国は 1811 年 2 月 20 日に国家破産を宣言する。そしてそれ迄に価格高騰に晒されその価値を大幅に下げていた貨幣制度を再建する為に、これに先立つ同年 1 月 31 日以後は既発行の銀行紙幣が無効とされ、同日迄にそれ以降 Wien 通貨と呼ばれる事になる、新たに発行される 「償還紙幣」 へ任意で交換をする事が出来たが、その際に 80 % が手数料という名目による減額が行われ、その価値はそれ以前の 1/5 に下がる事となった。
これによってそれ以前の貨幣制度に基づいて支払い額の定められていた Beethoven の年俸もその価値が 1/5 に下がってしまう為に、彼はは先ず Rudolph 大公に対して、契約上の年俸を全額新しい Wien 通貨建によって支払って貰う事を願い出ており、Rudolph 大公はそれを了承して、その支払いを保証する旨を 1812 年 2 月に書面を以て Beethoven に伝えている。
Rudolph 大公に次いで、その頃 Bohemia 王国の Praha に居住していた Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) に対しては、Vogelsang 連隊の士官として同地に滞在中であった Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) を通して、Beethoven による書面を侯爵に手渡して貰い、侯爵の支払い分であった 1,800 Gulden についても同様の了解を得ており、その後同年 7 月 4 日に Beethoven が Praha に滞在する機会があった折には、直接侯爵に会って再度それを確かめるという事をしている。
3 人目の Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) に対しては、Beethoven が同年夏の 7 月初頭に Praha の短期滞在を経て以降 9 月末に至る迄、Bohemia 王国の Teplitz、Karlsbad と Franzensbad に滞在していた為に、その間 Wien に留まっていた友人 [恐らくこの頃 Beethoven の秘書として時々手伝っていた Franz Oliva (1786-1848) ] を介して同様の了承を得る様にしており、更に Beethoven が 11 月初旬に Linz から Wien に戻った後に、侯爵に会いに行って Kinsky 侯爵の時と同様に直接その申し合わせを確かめている。
しかしこれ等の Beethoven の努力も空しく Lobkowitz 侯爵に関しては、それ迄の鷹揚過ぎる程の芸術家への多額の援助と、それに対する杜撰な財務管理が原因となって、多額の負債を抱え込んで殆ど破産に近い状態に陥っており、1811 年 9 月 1 日以降分の Beethoven に対する、四半期毎に支払われていた年俸の支払いは行われていなかった。
そこで Beethoven は 1813 年 6 月 13 日に、宮廷法廷弁護士で Wien の公証人でもあった、Karl Schwabel Edler von Adlersburg (1774–1855) を代理人として、Lobkowitz 侯爵に対して年俸の支払い継続を求める訴訟を、Niederösterreich 地方裁判所に於いて起こしている。
更に同年 7 月 24 日には、前月の 1 日以来 Lobkowitz 侯爵家の管財人を務めていた、その友人の Schwarzenberg 侯爵 Joseph II. (1769-1833) に対して、Lobkowitz 侯爵が滞納している年俸の速やかな支払いを願う手紙を書いているが、その中で Beethoven は、既に以前より或る人物から融資を受けていたが長い間その返済が全く出来ずにいたので、その債権者によって自分は全額の返済を求める裁判に訴えられており、その返済の為に自分は Lobkowitz 侯爵に対する訴訟を起こさざるを得なかったと説明している。
但しここで言及されている Beethoven に対して融資を行っていた者が誰であったのかを示す資料や、またこの人物によって返済を求めて起こされたという裁判に関する記録は、Beethoven がこの手紙に於いて書いている以外には発見されていない。
Beethoven
による
Schwarzenberg 侯爵に宛てた
手紙の原文は省略
日本語訳は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 31«
[Archiv / Musik 2021 Nr. 6]
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上部の写真:
償還紙幣 (Wien 通貨)
100 Gulden
1811