Kommentar 2022 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 42

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 41«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 5]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) による 2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) と、その初演の丁度 1 年後に同じ Theater an der Wien に於いて初演の行われた、Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に „Leonore” と改称) との、両作品の主要な登場人物を歌った歌手達が重複しているという事以上に、Beethoven の Fidelio の総譜では、Salieri による Die Neger を想起させる箇所が少なからず見受けられる。

 Salieri がこの作品の作曲を行っていた頃、Beethoven は未だ Salieri の下で声楽作品の作曲法を学んでおり、その為にこの Die Neger をその頃から良く知っていたであろうと推定する事が出来る。
そして Salieri が夫々の役の声楽部分を作曲する際には、初演で実際にその役を歌う事になる歌手の特性を充分に考慮した上で作曲を行っているので、その Salieri による音楽から逆に Beethoven は、夫々の同じ歌手が歌う事になる自身の作品中の各役の音楽の発想を得ていたのではないかと考える事が出来る。

 因みに、Die Neger の台本を執筆した劇作家で舞台監督の Georg Friedrich Treitschke (1776-1842) は、後の 1814 年 5 月 23 日に Wien の Kärntnertortheater に於いて初演の行われた、Beethoven による „Fidelio” の第 3 最終稿の台本の改訂執筆を担当している。

 Leipzig 生まれの Treitschke は 1802 年に旅行で Wien に来た事があり、その頃 Wien の両方の宮廷劇場の監督官であった Peter von Braun 男爵 (1758-1819) と知り合って、その後間も無く Wien の宮廷劇場の舞台演出家び劇作家として雇用される事になる。
1809 年からは Theater an der Wien の副監督も兼任していたが、1811 年に宮廷劇場の方を辞めて Theater an der Wien の監督に就任し、それを 1814 年迄務めている。
その後 1814 年には再び宮廷劇場に戻っており、この時に Treitschke が Beethoven に働き掛けた事によって、Beethoven は Fidelio の 2 回目の改訂作業に取り掛かる運びとなった。

 Salieri は Joseph Ferdinand Sonnleithner (1766-1835) が、1800 年頃に出版を計画した 「音楽史の記念碑」 に於いて、声楽に関する論考執筆を担当する予定であった。各 60 頁の全 50 巻から成り、独語、仏語、伊語と英語の 4 箇国語で出版されるという、この大変野心的な計画には Salieri の他にも、1790 年に Esterházy de Galantha 侯爵家への勤めから解き放たれて、自由な作曲家という身分になっていた Joseph Haydn (1732-1809) や、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の後を継いで Wien の Stephansdom の楽長助手となり、その 2 年後には楽長に就任した Johann Georg Albrechtsberger (1736-1809) 等も協力する予定であった。

 その第 1 巻が Wien の Kunst- und Industrie-Comptoir から出版された後の 1805 年 11 月 13 日に、Wien は Napoléon Bonaparte (1769-1821) の率いる France 帝国軍に占領されており、その時製作済みであった 270 枚の鉛製の印刷原版は France 軍によって没収され、溶かして弾薬の材料にされてしまう。

 その後も尚残されていた校正用の印刷複写版は、第 2 次世界大戦の混乱期に失われ、只 「古楽と現代の記念碑的作品に関して、Georges Albrechtsberger、Joseph Haydn と Antoine Salieri の各氏の口述筆記に基づき、Joseph Sonnleithner が書いた、最も初期の時代から現在に至る迄の音楽の歴史」 という標題の付された手稿の一部が残るのみとなってしまった。

 1801 年 5 月 1 日に美術と学術作品及び音楽作品の出版を目的として、Wien に於いて創業された Kunst- und Industrie-Comptoir は、早速同年 10 月 5 日には Ludwig van Beethoven との契約に成功しており、その後 1808 年に至る迄の期間その主要出版社となっている。

 創業の翌年に創業者の 1 人の画家 Joseph Anton Kappeller (1761-1806) が経営から手を引くと、Joseph Sonnleithner がその後任経営者の 1 人として同社に加わっている。
Sonnleithner はその後 1804 年から 1814 年迄の期間 Wien の宮廷劇場秘書を務め、その間仏語の台本の翻訳やまた自ら台本執筆も行っており、1805 年 11 月 20 日に Theater an der Wien に於いて初演の行われた、Beethoven による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に Beethoven の当初からの意思に従い „Leonore” と改称) の台本の制作も担当している。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 43«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

2 幕に改訂されて上演された
Sonnleithner による
Leonore oder Der Triumph der ehelichen Liebe
(Leonore 又は夫婦愛の勝利)
の台本

Beethoven による Fidelio の第 2 稿に当たる


Theater an der Wien

1806

 

 

 

 

 

 

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