Memorandum 2020 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 55

 

 


選帝侯 (第55回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 54«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が 1612 年 12 月 22 日に亡くなると、その子供はその時僅か 3 歳であった Maria Gonzaga (1609-1660) しか生存していなかったので、Francesco IV. の弟の Ferdinando Gonzaga (1587–1626) が、Mantova 及び Monferrato 両公国の統治権を受け継ぐ為に、枢機卿として滞在していた Roma より急遽 Mantova へ戻っている。

 Maria Gonzaga を自身の領地に連れ出して人質として拘禁する事を企んでいた、Maria Gonzaga の母方の祖父に当たる Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) から守る為に、Ferdinando は Maria Gonzaga を Sant’Orsola 修道院の庇護下に移して、その世話を Maria からは従祖母に当たる Margherita Gonzaga (1564-1618) に委ねた一方、Carlo Emanuele I. が主張した、Francesco IV. Gonzaga の未亡人となった Maria Gonzaga の母親で自身の娘の、Savoie 公女 Margarete (1589-1655) が妊娠しているという可能性に対処する為に、Ferdinando は自身の義姉に当たる Savoie 公女 Margarete が Mantova 公国内に留まる様に説得した。

 そして Margarete には Mantova の町の北西凡そ 16 ㎞ で、Garda 湖の南方約 26 ㎞ に位置する Goito 城をその住まいとして提供し、Carlo Emanuele I. の主張通りであれば、Mantova 及び Monferrato 両公国の公爵位継承者となるその子供の誕生に備えた。
Savoie 公女 Margarete は義弟の Ferdinando に従って実際に Goito 城に移りはしたものの、その妊娠は事実では無い事が間も無く明らかとなり、父親の Carlo Emanuele I. の強要に従って、1613 年 4 月に密かに Goito 城を抜け出して、Savoie 公国の首都 Torino の父親の許へ向かった。

 Gonzaga 家の唯一の後継者と見做す Maria Gonzaga を自身の下に拘禁するという企みも、またその母親で自身の娘の Savoie 公女 Margarete の懐妊によって、Mantova 及び Monferrato 両公国の後継権が Francesco IV. の弟の、Ferdinando Gonzaga に渡るのを阻止するという計画も頓挫してしまった Carlo Emanuele I. は、彼にとって大変魅力的であった Montferrat 公国を手に入れる為には、別の手法に訴えるしか方法が無くなってしまった。

 そこで遂に Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. は軍事力に訴える事にし、Savoie 公国の東隣の Montferrat 公国に進軍してそこを占領した。その結果必然的に Mantova 公国と Savoie 公国間の戦争へと発展し、それは Maria Gonzaga にとっては叔父と祖父の争いという事であった。
この争いには当の両公国だけでは無く、France 王国の Bourbon 家と、Austria 系列及び España 系列の両 Habsburg 家が、夫々の利害を目論んで Mantova 公国を支援する立場に付いたために、戦いは条約締結による一時中断を挟み乍らも何度も繰り返され、最終的には 1617 年 9 月 9 日に Pavia に於いて締結された和平条約を以て漸く収束した。

 この間 Ferdinando Gonzaga は、Mantova 及び Monferrato 両公国の統治に専念する為に、1615 年 11 月 16 日に枢機卿の地位を辞任した。
それを受けて Ferdinando の弟の Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) には、同年 12 月 2 日に Roma 法王 Paul V. (1552-1621) によって、枢機卿の位が与えられている。
そして Ferdinando Gonzaga は翌 1616 年 1 月 6 日に公式に、6 代目の Mantova 公爵及び Monferrato 公爵に即位した。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 56«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Goito 城

Mantova 公国

 

 

 

 

 

 

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