Memorandum 2022 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 78

 

 


選帝侯 (第78回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 77«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Magdeburg を巡って 1631 年 5 月 20 日に行われた戦いに於いて、Dietrich von Falkenberg (1580-1631) を指揮官とする Protestant 軍が、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632)及び、Pappenheim 伯爵 Gottfried Heinrich (1594-1632) が率いる、Katholik 側軍勢に完敗して間も無い同年 5 月 30 日に、Bayern 選帝侯 Maximilian I. (1573-1651) と France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-1643) との間に、これ以降の 8 年間に亘って両国間に同盟関係を結ぶ Fontainebleau 条約が締結された。

 Bayern 公国の更なる France 王国への接近を表すこの条約では、若し Bayern 公国が攻撃された場合には France 王国が軍事面での援助を行い、逆の場合も同様だが、France 王国の場合には Habsburg 家の皇帝軍による攻撃というものが想定されている。
またこの条約に於いて France 王国は、1620 年 11 月 8 日に Praha 郊外の Weißen Berg に於いて行われた戦いで敗走した、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の承継していた、Pfalz 選帝侯領及び選帝侯位の Maximilian I. への移譲を認め、それに対して Maximilian I. は France 王国に敵対する勢力には加担しないという事が義務付けられた。

 しかしこの両国間の同盟関係は、同年 1 月 23 日に Bärwalde に於いて、同じく France 王国と同盟関係を結んでいた、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる Sweden王国軍が、翌 1632 年 4 月に Bayern 公国領の、Lech 河畔の Rain に侵攻した際、France 王国 は Bayern 公国に対して軍事援助を行わなかった為に、事実上全く意味の無いものとなった。

 この時 France 王国側は、Bayern 公国の方が Sweden 王国に対して敵対関係に進んで行ったので、条約に定める攻撃を受けた際の軍事援助を伴う同盟関係が発生する状況では無いと主張した。
しかし実際には、Bärwalde に於ける Sweden 王国との条約も締結していた、France 王国首席大臣の Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) が、同条約に於いて神聖 Roma 帝国内に於ける皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の孤立を目的として、France 王国と Sweden 王国は夫々 Maximilian I. との友好関係を結ぶか、或いは少なくとも Bayern 公国の中立性は堅持するという事が定められていた為に、Gustav II. Adolf は Bayern 公国の外交的中立の立場を尊重するであろうと考えていたという誤算があり、そもそも Sweden 王国とも同盟関係を締結していた France 王国にとっては、どちらの側にしても軍事援助を行うという事は、最初から政治的に矛盾するという状況にあった。

 この France 王国との同盟条約が全く無意味なものであったという事が判明すると、Maximilian I. は Bayern 公国がこれ以後も中立性を保持する事が出来る様にと腐心はしたものの、Bayern 公国にとって受け入れる事の出来る、この時の Katholik と Protestant 両勢力の戦いから抜け出る為の条件を、Gustav II. Adolf が受け入れようとしなかった為に、その目的を果たす事は叶わなかった。
その為に Maximilian I. はこれ以降 Bayern 公国の中立性を捨て、神聖 Roma 帝国に於ける皇帝 Ferdinand II. の側に再び与する事を決意する。

 一方 Fontainebleau の条約締結から 2 箇月後の同年 7 月に、Sweden 国王 Gustav II. Adolf の率いる Sweden 王国軍は、Elbe 河左岸に位置する、1358 年以来 Hansa 同盟に所属する都市で、Elbe 渡河の交通と物流の要衝であり、軍事上の重要な拠点となる Werben に迫っていた。
Werben を難無く占領した Gustav II. Adolf は、市内に宿営を設置し、市壁の前には要塞化された露営地を設け、また Elbe 河の堤防にも軍勢を展開して、来るべき Katholik 勢力との戦闘の準備を周到に進めた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 79«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:

Bayern 公爵及び Bayern 選帝侯 Maximilian I.


Bohemia の素描家で銅版画家
Wenzel Hollar (1607-1677)
による
銅版画


1649

 

 

 

 

 

 

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