Kommentar 2020 Nr. 4
Ludwig van Beethoven
und
seine Zeit
Antonio Salieri
Teil 24
»Antonio Salieri Teil 23«
[Archiv / Kommentar 2020 Nr. 3]
より続く
Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について
Austria 大公 Franz Joseph Karl (1768-1835) と Elisabeth von Württemberg (1767–1790) との結婚式が、1788 年 1 月 6 日に Wien に於いて執り行われ、その御祝いの為に Franz Joseph Karl の伯父に当たる、皇帝 Joseph II. (1741-1790) の依嘱によって制作された、Antonio Salieri (1750-1825) による 5 幕の dramma tragicomico „Axur, re d’Ormus” (Ormus の王 Axur) の初演が、その結婚式の 2 日後に Wien の Burgtheater に於いて行われ、大きな成功を収めた。
子供に恵まれる事の無かった Joseph II. が、その後継者と定めた甥の Franz Joseph Karl の為に、資金を惜しむ事無く華やかで盛大に行われたこの時の結婚式と、„Axur, re d’Ormus” の初演から丁度 1 箇月後の 2 月 8 日に、Joseph II. は Osmân 帝国に対して宣戦布告を行い、Osmân 帝国と戦争状態にあった Russia 帝国に与する事となった。
一方 1766 年に当時未だ 15 歳であった Salieri を、Venezia から Wien に連れて来た Florian Leopold Gaßmann (1729-1774) の後任として、1774 年以来 Wien の宮廷楽長を務めていた Giuseppe Bonno (1711-1788) が、高齢で職務遂行が困難になった為にこの年に入ると退職し、その後任として同年 2 月に、Salieri が Wien の帝室宮廷楽長に任命されている。
これによって Salieri は国家の音楽に関わる全ての面に於ける責任を担う立場に立つ事となった。
Osmân 帝国に対するこの戦争が開始された当初、その経過は Austria 大公国にとって厳しい状況であり、Wien に於いても特に経済面での困難が間も無く強く感じられる様になって行く。
物価高騰が早く進んで特に食料品の価格は 2 倍に迄上がり、また多くの市民が徴兵を嫌って市域外へ逃避した。
文化的な生活面の水準は大きく下がって、Wen に於いて開かれる演奏会の数も明らかに減り、その結果宮廷劇場は殆ど休場状態となった。
この 2 月の月末には皇帝自身が、戦線へ赴く為に Wien を離れている。
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) による 4 幕の Opera buffa „Le nozze di Figaro” (Figaro の結婚) の、Praha に於ける公演の大きな成功によって、その劇場支配人であった Pasquale Bondini (-1789) から新たに依嘱を受けて作曲された、2 幕の Dramma giocoso „Il dissoluto punito ossia Il Don Giovanni” (処罰された放蕩者、又は Don Giovanni) は、前年の 10 月 29 日に Praha の Nationaltheater に於いて初演を迎え、再び大成功を収めている。
この時の初演は当初予定されていた期日には間に合う事が出来なかったが、皇帝 Joseph II. の弟で 1790 年に Leopold II. として次の皇帝に即位する、Toscanaa 大公 Peter Leopold (1747-1792) の長女、Maria Theresia von Österreich (1767–1827) と、後に国王となる Sachsen 王子 Anton (1755-1836) の結婚に伴う、両者の Praha 訪問の機会に合わせて、初演の日程が計画されていた。
実際には両者の Praha 訪問の 2 週間後になって行われた、この作品の初演の大きな成功の知らせが間も無く Joseph II. の許にも届き、この皇帝の強い希望によって Wien に於いてもこの作品が上演される事となった。
Mozart は Praha の初演に参加し、Wien の公演でも歌う事になる歌手達の希望を取り入れて、Wien での上演の為にこの作品の改作を行っている。
それによって第 2 幕の Leporello (Nr. 20) と Don Ottavio (Nr. 21) の Arie が削除され、それに代わる Zerlina と Leporello による Duett (Nr. 21a) と、Donna Elvira による規模の大きな Recitativo accompagnato 付きの Arie (Nr. 21b)、及び Don Ottavio の第 1 幕に於ける Arie (Nr. 10a) と、それ等に伴う幾つかの Recitativo secco が新たに作曲されている。
Praha に於ける初演の大きな成功を受けて、この新たな Wien 版による公演が行われようとしていた時の Wien の町は、丁度折悪く上記の様な Osmân 帝国との戦争が開始された大変厳しい状況の下にあったが、Joseph II. とその率いる軍隊が Wien に戻るのを待って、その Wien 版の初演は 1788 年 5 月 7 日に、Burgtheater に於いて皇帝の臨席を得て行われた。
この先は次回
»Antonio Salieri Teil 25«
[Archiv / Kommentar 2020 Nr. 5]
へ続く
上部の写真:
„Il dissoluto punito ossia Il Don Giovanni” の
Praha に於ける初演の為の Poster
1787 年 10 月 29 日