Memorandum 2022 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 73

 

 


選帝侯 (第73回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 72«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1630 年 7 月 6 日に Usedom 島の Peenemünde に上陸侵攻した Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) は、神聖 Roma 帝国領の北東端に当たる Pommern 公国の内陸部へと進み、その中心部に橋頭堡を築く。
その後翌 8 月 1 日に Magdeburg 市が Sweden 王国と同盟を結んだものの、それ以外の帝国内のプロテスタント諸国は Gustav II. Adolf に対して不信感を抱いており、Sweden 王国との同盟関係の締結には躊躇しているという状況が続いた。

 翌 1631 年 1 月になると、橋頭堡を築いていた Pommern 公国の中央部から Sweden 王国軍は南進を開始し、Brandenburg 辺境伯領との国境に近く、Oder 河に面していて戦略上重要な位置にあった Gartz と Greifenhagen を先ずは占領する。
そこから更に Sweden 王国軍は Oder 河に沿って、選帝侯 Georg Wilhelm (1595-1640) の治める Brandenburg 辺境伯領との衝突を経て、同領内にある Neumark の Bärwalde を占領し、同月 23 日にそこに於いて Sweden 王国と France 王国の間に同盟関係を結ぶ条約が締結される。

 Sweden 王国軍はその後更に Brandenburg 辺境伯領内の南下を進め、同年 4 月 13 日に Oder 河の重要な渡河地点に当たる Frankfurt an der Oder に至る。この都市は Sweden 軍が Pommern 公国以外で初めて攻撃を仕掛けた重要な要塞都市となった。
Gustav II. Adolf 自身が指揮を執る Sweden 王国軍は、Scotland の将帥 John Hepburn (1598-1636) と、同じく Robert Monro (1601-1680) の率いる Scotland の軍勢と共に Frankfurt の包囲戦を開始する。

 John Hepburn は 1620 年以来皇帝軍に対する闘いに於いて、プロテスタントの Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の軍勢に与している。その後 1623 年からは Gustav II. Adolf に仕え、その 2 年後には 「緑の旅団」 とも呼ばれていた Sweden 王国軍の Scotland 連隊の司令官に任命されている。

 また Robert Monro も同じく、Friedrich V. の率いる Bohemia 王国軍を助ける Scotland 連隊の少尉として、大陸に於ける宗教戦争に加わり、その後は Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) に仕えて、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いる皇帝軍との戦闘に加わり、1630 年以降は Gustav II. Adolf に仕えて Pommern 公国に進駐していた。

 1631 年 4 月 13 日から 2 日間 Frankfurt an der Oder の包囲を行った Sweden 王国軍及び Scotland 軍は、その 2 日目の 4 月 15 日になって城壁への攻撃を開始し、カトリック連盟による帝国側防衛軍はその日の内に打ち負かされる。
この時の防衛軍の敗戦には、それ迄の報酬を未だ支払われていなかった傭兵達が、先にその支払いを受ける迄は戦う事を拒否したという内部の諍いが、その原因の一つになったと考えられている。
この敗戦の結果数多くの防衛軍の兵士達が虐殺され、その死者の数は Sweden 側が 800 人であったのに対して 3,000 人に及んだ。
又 Sweden 王国軍及び Scotland 軍による Frankfurt の掠奪は、その後数箇月間にも亘って続いた。

 Sweden 王国軍に仕えていた Scotland 軍の少将 John Leslie が、Frankurt an der Oder の総督に任命され、その指示によって城壁の補強と両軍の死者の埋葬が速やかに行われている。
John Leslie はその後間も無く解任されて、同じく Scotland 人の James MacDougal がその後任となり、更にそれは 3 人目の総督となった Leven 伯爵 Alexander Leslie (ca. 1580-1661) に交代する。
Alexander Leslie は 1605 年以来 Sweden 王国軍に仕え、1626 年には Gustav II. Adolf によって騎士の称号を与えられて、Sweden 王国軍の中将の位階を有していた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 74«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:

Frankfurt an der Oder の街並み


Frans Hogenberg (1535-1590) による
彩色銅版画

1572

 

 

 

 

 

 

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