Archive for the 'Kommentar' Category

Kommentar 2022 Nr. 8

Dienstag, November 15th, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 44

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 43«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 7]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) が 1804 年に完成させた 2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) が、彼による最後の舞台作品となり、その後 1807 年になってから、嘗て 1784 年に Paris に於いて初演が行われ異例の大成功を収めた、5 幕の Tragédie lyrique „Les Danaïdes” の、仏語から独語版への改作は行ったものの、それ以降舞台作品を書く事は無く、専ら宗教曲の作曲に専念する様になった。

 Salieri は 1774 年に Florian Leopold Gaßmann (1729-1774) が亡くなった事によって、Wien の宮廷作曲家及び伊語劇場の楽長となり、その後 1788 年には Giuseppe Bonno (1711-1788) の退職に伴って帝室宮廷楽長に就任して以来、宮廷楽団員の新たな採用の際には自らが選任し、彼等が一流の奏者となる様に訓練を施して来たという様な、凡そ 20 年にも亘る努力によって、Wien の宮廷劇場 Orchester は当時大変高い技術を有する演奏団体となっていたが、Salieri のその後の宮廷劇場への不在に因って、そこには大きな変化が起こっていた。

 この時代の最も広く知られた音楽専門雑誌であった „Allgemeine Musikalische Zeitung” (一般音楽新聞) の、1801 年 6 月 1 日付けの記事に以下の様な文章が載っている。

 


・ ・ ・
尊敬に値する Salieri が伊語劇場の楽長であった時
そして若し私が間違っていなければ
Scheidlein 氏が Orchester の監督であった時
その楽団員達は (その内の何人かが退団していたとしてもそれ以外の人達は) 現在と同じでしたが
それにも拘らず [当時は] Oper が最も厳しい批評に於いても
それ以上は何も要求する事が出来ないという程の水準で上演されていました。
全楽器の完全な間と全楽員が演奏する際の精緻さ [だけ] が
彼等の最も卓越した点だという訳ではありませんでした。
声楽 [歌手] は最高度の繊細さを以て [Orchester により] 伴奏され
その伴奏声部に於ける各々の陰影は
極度のものから最も微かなものに至る迄
常に的確な表現が行われました。
当時この Orchester が
独語圏に於ける第 1 級の劇場 Orchester の 1 つであるという事に
議論の余地はありませんでした。
これには全ての能力のある審判者なら同意する事でしょう。
しかし Salieri が彼の地位を他の者に譲らざるを得なくなり
Conti 氏が Orchester の主導者となった時
Orchester は今あるような地点まで次第に沈み込んで行きました。
従ってその間違いの原因は楽団員達にあるのでは無く
その主導者にある訳です。
・ ・ ・

 

 ここで述べられている Milano 生まれの Giacomo Conti (1754-1805) は、Lombardia の Varese に於いて Oper の指揮者として活動を始め、Zürich に於ける Violine 奏者を経て、1787 年に Russia 帝国の Grigori Alexandrowitsch Potjomkin 侯爵 (1739-1791) の楽団員となり、また Dnipropetrovsk の音楽学校の教員も務める。
その後 1791 年に Wien に移った Conti は伊語劇場の指揮者に就任し、1797 年から彼が亡くなる 1805 年に至る間は、Wien の宮廷楽団にも迎え入れられている。
また Conti は Beethoven の後援者の一人で、彼が Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92) 他の作品を献呈した、Moritz von Fries 伯爵 (1777-1826) の Violine の教師でもあった。

 

 


Allgemeine Musikalische Zeitung
による
記事の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 45«
[Archiv / Kommentar 2023 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:

Antonio Salieri


Fr. Rehberg

1821

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 7

Samstag, Oktober 1st, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 43

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 42«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 6]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) は、1784 年 4 月 26 日に Opéra de Paris に於いて初演が行われて大変大きな成功を収めた、5 幕の Tragédie lyrique „Les Danaïdes” の独語版への改作を 1807 年になって行っているが、それを除外すると、Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に „Leonore” と改称) の台本作者となる、Joseph Ferdinand Sonnleithner (1766-1835) が台本を担当し、1804 年 11 月 10 日に Theater an der Wien に於いて初演が行われた、2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) が、Antonio Salieri (1750-1825) による完成された最後の舞台作品となった。

 初演から 20 年以上の年月が経過した後の „Les Danaïdes” の改作ではあったが、異例の好評を博したこの作品は、1784 年の初演以来 1827 年に至る迄の間に、Opéra de Paris に於いて 127 回上演演目に採り上げられており、初演の直後から独語やその他の言語に翻訳されて、Europe 各地の諸都市に於いても上演される様になっていた。

 „Les Danaïdes” は Ludwig van Beethoven を始めとして、Gaspare Spontini (1774-1851)、Franz Liszt (1811-1886)、Richard Wagner (1813-1883) や Charles François Gounod (1818-1893) 等数多くの作曲家達や、Honoré de Balzac (1799-1850)、Victor Hugo (1802-1885) 等の作家達からも称賛を与えられる作品であった。

 又父親を継いで医師となる為に 1821 年に Paris に出て医科大学に入学していた Hector Berlioz (1803-1869) は、その翌年に Christoph Willibald Gluck (1714-1787) による 4 幕の Tragédie „Iphigénie en Tauride” と並んで、„Les Danaïdes” の公演を観て大きな感銘を受けた事が、医学の勉強を止めて音楽家になる決心をした大きな契機の 1 つになっていた。

 Salaieri が 1807 年になって „Les Danaïdes” の独語版改作に取り組んだのは、Beethovenの重要な後援者の 1 人であった、Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) の希望によるのでは無いかと推測されている。
Austria の台本作家及び風刺作家で、1803 年 4 月 5 日に Theater an der Wien に於いて初演の行われた、Ludwig van Beethoven による Oratorium „Christus am Ölberge” (Olives 山の救世主) の台本作家であった Franz Xaver Huber (1755-1814) が、François-Louis Gand Le Bland Du Roullet (1716-1786) と Jean-Baptiste-Louis-Théodore de Tschudi (1734-1784) の共作による仏語の台本の改作を行った。

 Salieri はその台本に基づいて数曲の Arie と Ensemble を新たに作曲し、全体は „Danaus” という標題の下に、4 幕の独語による Oper として改作が完成された。
その後の記録が発見されていないので、この作品の全曲の上演が実際に行われたかどうかについては明らかになっていないが、1816 年 1 月 7 日に行われた Wien 楽友協会の演奏会に於いて、第 3 幕で Egyptus の 50 人の息子達と Danaus の 50 人の娘達の結婚を祝う合唱曲 „Hinab im Schoß der Amphitrite“ と、同じく „Die Liebe folgt dem Bacchus im Geleite“ が演奏会形式で演奏されたという記録が残されている。

 更に 1817 年に Opéra de Paris に於いて行われた „Les Danaïdes” の再演の際に Salieri は、幾つかの曲を書き直し、新たに Paris では大変好まれていた Ballet の為の曲を何曲か作曲した。
1814 年から Paris の宮廷作曲家の地位にあり、この時の公演の指揮を行った作曲家の Gaspare Spontini (1774-1851) は、これに加えて更に Ballet の挿入曲として、規模の大きな Bacchanal を書いて上演している。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 44«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:

Danaïdes


John Singer Sargent (1856-1925)

1922-1925

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 6

Montag, August 15th, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 42

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 41«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 5]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) による 2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) と、その初演の丁度 1 年後に同じ Theater an der Wien に於いて初演の行われた、Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に „Leonore” と改称) との、両作品の主要な登場人物を歌った歌手達が重複しているという事以上に、Beethoven の Fidelio の総譜では、Salieri による Die Neger を想起させる箇所が少なからず見受けられる。

 Salieri がこの作品の作曲を行っていた頃、Beethoven は未だ Salieri の下で声楽作品の作曲法を学んでおり、その為にこの Die Neger をその頃から良く知っていたであろうと推定する事が出来る。
そして Salieri が夫々の役の声楽部分を作曲する際には、初演で実際にその役を歌う事になる歌手の特性を充分に考慮した上で作曲を行っているので、その Salieri による音楽から逆に Beethoven は、夫々の同じ歌手が歌う事になる自身の作品中の各役の音楽の発想を得ていたのではないかと考える事が出来る。

 因みに、Die Neger の台本を執筆した劇作家で舞台監督の Georg Friedrich Treitschke (1776-1842) は、後の 1814 年 5 月 23 日に Wien の Kärntnertortheater に於いて初演の行われた、Beethoven による „Fidelio” の第 3 最終稿の台本の改訂執筆を担当している。

 Leipzig 生まれの Treitschke は 1802 年に旅行で Wien に来た事があり、その頃 Wien の両方の宮廷劇場の監督官であった Peter von Braun 男爵 (1758-1819) と知り合って、その後間も無く Wien の宮廷劇場の舞台演出家び劇作家として雇用される事になる。
1809 年からは Theater an der Wien の副監督も兼任していたが、1811 年に宮廷劇場の方を辞めて Theater an der Wien の監督に就任し、それを 1814 年迄務めている。
その後 1814 年には再び宮廷劇場に戻っており、この時に Treitschke が Beethoven に働き掛けた事によって、Beethoven は Fidelio の 2 回目の改訂作業に取り掛かる運びとなった。

 Salieri は Joseph Ferdinand Sonnleithner (1766-1835) が、1800 年頃に出版を計画した 「音楽史の記念碑」 に於いて、声楽に関する論考執筆を担当する予定であった。各 60 頁の全 50 巻から成り、独語、仏語、伊語と英語の 4 箇国語で出版されるという、この大変野心的な計画には Salieri の他にも、1790 年に Esterházy de Galantha 侯爵家への勤めから解き放たれて、自由な作曲家という身分になっていた Joseph Haydn (1732-1809) や、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の後を継いで Wien の Stephansdom の楽長助手となり、その 2 年後には楽長に就任した Johann Georg Albrechtsberger (1736-1809) 等も協力する予定であった。

 その第 1 巻が Wien の Kunst- und Industrie-Comptoir から出版された後の 1805 年 11 月 13 日に、Wien は Napoléon Bonaparte (1769-1821) の率いる France 帝国軍に占領されており、その時製作済みであった 270 枚の鉛製の印刷原版は France 軍によって没収され、溶かして弾薬の材料にされてしまう。

 その後も尚残されていた校正用の印刷複写版は、第 2 次世界大戦の混乱期に失われ、只 「古楽と現代の記念碑的作品に関して、Georges Albrechtsberger、Joseph Haydn と Antoine Salieri の各氏の口述筆記に基づき、Joseph Sonnleithner が書いた、最も初期の時代から現在に至る迄の音楽の歴史」 という標題の付された手稿の一部が残るのみとなってしまった。

 1801 年 5 月 1 日に美術と学術作品及び音楽作品の出版を目的として、Wien に於いて創業された Kunst- und Industrie-Comptoir は、早速同年 10 月 5 日には Ludwig van Beethoven との契約に成功しており、その後 1808 年に至る迄の期間その主要出版社となっている。

 創業の翌年に創業者の 1 人の画家 Joseph Anton Kappeller (1761-1806) が経営から手を引くと、Joseph Sonnleithner がその後任経営者の 1 人として同社に加わっている。
Sonnleithner はその後 1804 年から 1814 年迄の期間 Wien の宮廷劇場秘書を務め、その間仏語の台本の翻訳やまた自ら台本執筆も行っており、1805 年 11 月 20 日に Theater an der Wien に於いて初演の行われた、Beethoven による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に Beethoven の当初からの意思に従い „Leonore” と改称) の台本の制作も担当している。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 43«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

2 幕に改訂されて上演された
Sonnleithner による
Leonore oder Der Triumph der ehelichen Liebe
(Leonore 又は夫婦愛の勝利)
の台本

Beethoven による Fidelio の第 2 稿に当たる


Theater an der Wien

1806

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 5

Freitag, Juli 1st, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 41

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 40«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 4]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) によって完成された最後の舞台作品となる 2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) は、その大部分の作曲が 1802年に行われ、初演はそれから暫く時間が経過した 2 年後の、1804 年 11 月 10 日に Theater an der Wien に於いて行われている。

 Wien に於けるこの Singspiel の上演は聴衆によって比較的冷静に受け止められ、4 回の公演の後に Theater an der Wien の演目から外されている。
一方その翌年に Preußen 王国の Breslau に於いて、当地の Kapellmeister であった Carl Maria von Weber (1786-1826) の指揮によって行われた公演は、成功裏に行われたという事が伝えられている。

 同年 12 月 12 日付の „Allgemeine Musikalische Zeitung” 誌上に掲載された „Die Neger” の批評では、Salieri の音楽に関して部分的には優れた箇所が幾つもあるものの、全体としては Mozart や Cherbini [Luigi Cherubini (1760-1842)] の作品に於いて高く評価されて来た、力強さと性格描写に欠けると書かれている。
これに先立つ同月 7 日付の „Der Freimüthige” 誌上に於いても、「心地の良い音楽」 という言葉が見られるものの、同様の趣旨の批評が掲載されている。
但しその翌週にもう 1 度同誌上に現れた更なる „Die Neger” に関する記事では、Salieri の味わい深い音楽によるこの Oper が、5 回も大喝采を博したという事が伝えられている。

 この作品の初演が行われた翌 1805 年 11 月 20 日に同じ Theater an der Wien に於いて、Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 3 幕の Oper „Fidelio oder Die eheliche Liebe” („Fidelio” 第 1 稿、後に Beethoven の当初からの意思に従い „Leonore” と改称) の初演が行われている。

 丁度 1 年の期間を隔てて初演が行われたこの Salieri と Beethoven による 2 つの舞台作品は、悪巧みを企む悪役の意図が明らかにされて、それ迄苦難にあった男性主役が救われる事になるという、夫々が共通した筋の根幹となる内容を持っているが、更に両方の作品の初演を担当した歌手を比較すると、両作品の主要な役の歌手達が重複している事が明らかとなる。

 両方の作品に於いて夫々女性の主役となる Lady Anna と Leonore を、Salieri の下で声楽を学んだ Pauline Anna Milder (1785-1838) が歌い、最後に苦難から解放される事になる男性主役の、„Die Neger” に於ける Lord Falkland / Jack と „Fidelio” の Florestan は、1804 年初頭に Frankfurt am Main から Wien に移って Wien の宮廷劇場との契約を結んだ、Carl Demmer (1766-1824 以降) が受け持っている。
Demmer は生まれ故郷の Köln の劇場から、1789 年 1 月 3 日に新しく開場した Bonn の Nationaltheater に移っているので、丁度その時期に同劇場に於いて Viola 奏者を務めていた、Beethoven との面識が既にその頃からあったと推測する事が出来る。

 更に両作品に於ける夫々唯 1 人悪役の Lord Bedford と Don Pizarro の役は、1793 年 9 月 9 日に Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) による 2 幕の Singspiel „Die Zauberflöte” の Sarastro を歌って Wien-Début を果たし、その後 1797 年 12 月 23 日に Constanze Mozart (1762-1842) の姉で未亡人となっていた、Josepha Hofer (1758-1819、旧姓 Weber) と結婚した Sebastian Mayer (1773–1835) が歌い、女性脇役の Betty と Marzelline は、1798 年 7 月 10 日に Wien の Kärntnertortheater に於いて行われた、Mozart による 4 幕の Opera buffa „Le nozze di Figaro” (Figaro の結婚) の独語版の初演で、Barbarina を歌って歌手としての Début を行った Louise Müller (1784-1837) が、また男性脇役の John と Jaquino を、1802 年 1 月以来 Theater an der Wien の専属歌手であった Joseph Caché (1770-1841) が夫々担っている。

 

 


Allgemeine Musikalische Zeitung
及び
Der Freimüthige
による
記事の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 42«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:

„Die Neger” の初演の際に印刷された
台本の表紙


1804

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 4

Sonntag, Mai 15th, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 40

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 39«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 3]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Triest に新しく建設された Teatro Nuovo に於いて 1801 年 5 月 19 日に初演の粉われた、3 幕の Dramma per musica „Annibale in Capua” (Capua の Hannibal) に次いで Antonio Salieri (1750-1825) が取り組んだ舞台作品は、2 幕の Opera buffa „La bella selvaggia” (野生の美女) で、台本を Giovanni Bertati (1735-1815) が書き、翌 1802 年に Salieri によってその作曲が行われている。

 Giovanni Bertati は、作曲家 Ludwig van Beethoven (1770-1827) の祖父の Ludwig van Beethoven d. Ä. (1712-1773) の後任として、後の 1774 年に Bonn の宮廷楽長に就任する事になる Andrea Luchesi (1741-1801) が作曲を行い、1765 年に Wien の宮廷劇場に於いて初演の行われた、„L’isola della fortuna” (運命の島) の台本を書いており、又 Bertati に音楽の教授及び助言を与えてその後親交のあった Baldassare Galuppi (1706-1785) の為には、3 幕の Dramma giocoso „Il Villano geloso” (嫉妬深い Villano) を書いている。

 „Il Villano geloso” は 1769 年 11 月に Venezia の Teatro San Moisè に於いて初演が行われて大きな成功を収めていたが、その翌年に Galuppi が同作品の上演の為に Wien を訪れて滞在していた際に、Bertati を共に Wien に迄連れて来ている。
この作品に次いで Bertati は Galuppi の為にもう 1 作、3 幕の Dramma giocoso „L’inimico delle donne” (女性の敵) の台本を書いており、その初演は Bertati と Galuppi が Wien を訪れた年の翌 1771 年に、Venezia の Teatro San Samuele に於いて行われている。

 その後 Bertati は専ら Dramma giocoso の台本作家としての名声を高めて行き、1791 年には皇帝 Leopold II. (1747-1792) より „Poeta dei cesari teatro” (帝室劇場詩人) の称号を与えられて、Wien に移り住みそこで台本の執筆に従事していた。
同じく 1791 年に Leopold II. によって宮廷作曲家として Wien に招かれていた Domenico Cimarosa (1749-1801) が、Bertati の台本に基づいて作曲を行い、1792 年 2 月 7 日に Wien の Burtheater に於いて初演の行われた、2 幕の Dramma giocoso „Il matrimonio segreto” (秘密の結婚) は、Cimarosa と Bertati の両者にとっての大きな成功を収めた代表作となっている。

 この Bertati の台本作家としての活動の最後の年に書かれた „La bella selvaggia” の Salieri による作曲は完了しているものの、その後の上演に関する記録が発見されておらず、この作品が実際に上演されたかどうかは現在に於いても不明な状態となっている。

 „La bella selvaggia” の作曲を行った同 1802 年中に、Salieri は次の作品となる 2 幕の Singspiel „Die Neger” (黒人) に取り掛かる。
作曲の殆どはこの年の内に終えていたものの、初演はそれから 2 年後の 1804 年 11 月 10 日に、Salieri の作品としては初めて Wien の宮廷劇場では無く、Wien 市壁外の Theater an der Wien に於いて漸く行われている。

 この Theater an der Wien は、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の作曲による 2 幕の Singspiel „Die Zauberflöte” (魔笛) の台本を執筆した事で広く知られている Emanuel Schikaneder (1751-1812) と、裕福な繊維商の Bartholomäus Zitterbarth (1757–1806) によって建設され、1801 年 6 月 13 日に開場した Wien の新しい劇場であった。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 41«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:

開場した頃の
Teater an der Wien

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 3

Freitag, April 1st, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 39

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 38«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 2]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Wien の Theater am Kärntnertor に於いて 1800 年 10 月 22 日に初演の行われた、2 幕の Opera buffa „L’Angiolina, ossia Il matrimonio per sussurro” (Angiolina、又は囁き声の結婚) に次いで Antonio Salieri (1750-1825) が書いた舞台作品は、3 幕の Dramma per musica „Annibale in Capua” (Capua の Hannibal) であった。
台本に関しては、その前作迄の 3 つの作品に於いて続けて Salieri との共同作業を行い、それ等が大きな成功を収める事に寄与して来た Carlo Prospero Defranceschi に代わって、今作では Italia の台本作家で又劇作家の Antonio Simeone Sografi (1759-1818) が新たに担当している。

 Padua に生まれた Antonio Simeone Sografi は生地での勉学を終えると、喜劇及びその他の分野の台本執筆の勉強をする為に、Italia に於ける演劇の改革で大きな功績を残した Carlo Goldoni (1707-1793) の出身地であった Venezia に赴き、そこで Commedia dell’arte に特徴的な、人物像や状況の類型化と誇張された演技による単純な笑いを追求した喜劇を脱却し、様々な人間の普遍的人物像を描写する事を目指した Dramma giocoso の様式を学ぶ。

 Sografi はその後 1789 年から 1816 年に至る期間台本作家としての活動に従事し、Giuseppe Gazzaniga (1743-1818)、Domenico Cimarosa (1749-1801)、Ferdinando Paër (1771-1839) や Giuseppe Farinelli (1769-1836) 等を始めとする、その他数多くの同時代の作曲家達の為に台本を書いている。また Sografi は Opera の台本の他にも、Kantate、Oratorium やその他の宗教曲の為の歌詞の執筆や、演劇の台本制作も行っている。

 Salieri は Adria 海に面した帝国自由都市の Triest に、新しく建造される運びとなった劇場の為に „Annibale in Capua” の作曲を行い、それは 1801 年 4 月 21 日に同劇場の杮落し公演として行われた、Gaetano Donizetti (1797-1848) の下で 9 年間音楽を学んだ、Bayern 出身の Johann Simon Mayr (1763-1845) の作曲による、2 幕の Dramma serio eroico „Ginevra di Scozia” (Scotland の Ginevra) に次ぐ作品として、同年の翌 5 月 19 日に Teatro Nuovo に於いて初演され、主役の Annibale (Soprano) を当時大変高名であった Castrato 歌手の Luigi Marchesi (1754-1829) が歌っている。
„Annibale in Capua” はその後初演に引き続いて、合計で 16 回の公演がこの劇場に於いて行われた。

 Salieri はこれに先立つ 1786 年 2 月 7 日に、Wien の Schönbrunn 宮殿の Orangerie に於いて初演の行われた、皇帝 Joseph II. (1741-1790) による依嘱作品の Divertimento teatrale „Prima la musica poi le parole” (最初に音楽、それに次いで言葉) の中で、1785 年に Wien に於いて Luigi Marchesi が主役の Sabino を、Catarina Cavalieri (1755-1801) が Epponina を歌って異例の大変大きな成功を収めた、Giuseppe Sarti (1729-1802) の作曲による Oper „Giulio Sabino” の中の幾つかの曲の引用と風刺を行っている。

 この Triest の Teatro Nuovo は 1798 年から 1801 年の間に、これに先立つ 1792 年に完成した Venezia の Teatro La Fenice [正式名称:Gran Teatro La Fenice di Venezia] を設計建造した、Venezia の新古典様式を代表する建築家の Gian Antonio Selva (1751-1819) と、同じく新古典主義の建築家で Triest の都市設計に大きな影響を与えた、Matteo Pertsch (1769-1834) によって設計及び建設された。

 Pertsch はこの劇場の正面の設計に際して、彼の師の Giuseppe Piermarini (1734-1808) による影響を強く受けている。Piermarini は 1778 年に完成された Milano の Teatro alla Scala の設計で知られており、同年 8 月 3 日に行われた杮落し公演では、Salieri による 2 幕の Dramma per musica „L’Europa riconosciuta” (再認識された Europa) が初演されている。

 Triest の Teatro Nuovo はこの後 1820 年になって Teatro Grande に改称され、又 1861 年には所有権が個人から市に移った為に、それ以降 Teatro Comunale と呼ばれる様になる。
更に 1901 年 1 月 27 日に Giuseppe Verdi (1813-1901) が亡くなると、同日の夜に急遽市議会が招集され、臨時決議によってそれ以降この劇場は、Teatro lirico Giuseppe Verdi という名前に変更する事が決定され、現在に迄至っている。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 40«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:

Teatro lirico Giuseppe Verdi


舞台上から見た観客席

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 2

Dienstag, Februar 15th, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 38

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 37«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 1]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 1799 年 1 月 3 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて初演が行われて大変大きな成功を収めた、2 幕の Dramma giocoso „Falstaff, ossia Le tre burle” (Falstaff 又は 3 つのいたずら) に次いで、Antonio Salieri (1750-1825) が取り組んだ舞台作品は、2 幕の Dramma eroicomico „Cesare in Farmacusa” (Farmacusa の Caesar) であった。
台本は Plutarchus (ca. 45 – ca. 125) の原作に基づき、前作の成功の一翼を担う事となった Carlo Prospero Defranceschi がもう一度起用されて作成している。

 この作品の初演は前作に引き続き Theater am Kärntnertor に於いて、前作が発表された翌 1800 年 6 月 2 日に行われている。
この作品も大きな成功を収めたとという記録が残されており、この時代の最も広く知られた音楽専門雑誌であった、Allgemeine Musikalische Zeitung” (一般音楽新聞) によって、この作品を称える記事も書かれている。

 Wien で „Cesare in Farmacusa” はこの初演以降翌年の 2 月 2 日に至る迄の期間に、Theater am Kärntnertor 及び Burgtheater に於いて計 20 回の公演が行われ、その翌月の 3 月 18 日からは Dresden の Morettisches Opernhaus に於いて、1807 年 1 月 17 日迄の期間に計 22 回の公演が行われている。また舞台作品としてのみでは無く、その一部が演奏会の演目に取り入れられて演奏されるという事も行われており、この作品が当時広く好評を博していた事が伺われる。

 Salieri は以前 Milano に於いて、1776 年に Teatro Regio Ducale が焼失し、その代わりに新しく建造された Teatro alla Scala の杮落し公演の為に、2 幕の Dramma per musica „L’Europa riconosciuta” (再認識された Europa) を書いて、1778 年 8 月 3 日に同劇場に於いて成功裏に初演が行われていたが、その作品の前奏曲に若干の変更を加えたものを „Cesare in Farmacusa” の序曲として再利用している。

 この „Cesare in Farmacusa” に於いて „La Tempesta di Mare” (海の嵐) と題された序曲は、後に 1807 年から翌年に掛けて、Ludwig van Beethoven (1770-1827) が Symphonie in F-dur „Pastorale” (Nr. 6, op. 68) を作曲した際に、その第 4 楽章 „Donner. Sturm” (雷鳴。嵐) の着想をここから得ている。

 Defranceschi による „Cesare in Farmacusa” の台本は後に匿名の作者によって改作され、それに基づいて Stefano Pavesi (1779-1850) が作曲を行い、新たに 2 幕の Melodramma eroicomico „La gioventù di Cesare” (青年 Caesar) として、1817 年に Milano の Teatro alla Scala に於いて上演されている。

 Salieri による次の舞台作品は、„Cesare in Farmacusa” の初演に引き続いて同じ 1800 年に書かれた、2 幕の Opera buffa „L’Angiolina, ossia Il matrimonio per sussurro” (Angiolina、又は囁き声の結婚) であった。台本作者としてはこの前年以降の 2 つの作品の大きな成功に寄与する事となった Carlo Prospero Defranceschi が再度起用され、William Shakespeare (1564-1616) と並ぶ英国の Renaissance 時代を代表する劇作家で詩人であった Ben Jonson (1572-1637) が、1609 年に書いてその後広く知られる様になっていた喜劇 „Epicœne, or The Silent Woman” を原作として台本が作成されている。

 この Salieri の作曲による作品の初演は前作や前々作と同様、Wien の Theater am Kärntnertor に於いて 1800 年 10 月 22 日に行われており、Wien では合計 10 回の公演が行われている。

 Ben Jonson の „Epicœne, or The Silent Woman” は、Salieri による „L’Angiolina, ossia Il matrimonio per sussurro” の初演が行われた同年に、詩人で作家の Ludwig Tieck (1773-1853) によって独語に翻訳されているが、後に作家で翻訳も行っていた Stefan Zweig (1881-1942) が独語による Oper の為の台本を作成し、それに基づいて、Richard Strauss (1864-1949) が 3 幕の Komische Oper „Die schweigsame Frau” (無口な女, op. 80, TrV 265) を作曲している。
Straussが 「Figaro 以降の opera comique の最良の台本」 と称賛した、この Zweig の台本によるこの作品の初演は、1935 年 6 月 24 日に Dresden の Staatsoper に於いて、Karl Böhm (1894-1981) の指揮の下に行われている。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 39«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:

Cesare in Farmacusa


Ouvertura

第1頁

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2022 Nr. 1

Samstag, Januar 1st, 2022

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 37

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 36«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 8]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Napoléon Bonaparte (1769-1821) の率いる France 王国 Italia 軍に対する戦争に於いて、Austria 大公国が劣勢に立たされた社会状況が原因となって、一時舞台作品の創作活動を中断していた Antonio Salieri (1750-1825) は、1798 年 10 月 17 日に両国の間に締結された Campo Formio の和平によって、最終的にこの戦争が終結すると作曲活動を再開する。

 この時に新たに作曲に取り掛かった作品は、2 幕の Dramma giocoso „Falstaff, ossia Le tre burle” (Falstaff 又は 3 つのいたずら) であったが、台本は William Shakespeare (1564-1616) による喜劇 „The Merry Wives of Windsor” (1597) に基き、Carlo Prospero Defranceschi が書いているが、Defranceschi によって原作の比較的複雑な筋書きは、例えば Fenton と Anne Page による脇筋は省略する等して、本質的なものに集約された集中度の高いものとなっている。

 Salieri による音楽は、例えば音楽的に Seria 的な性格付けのされている Mr. Ford を始めとして、登場人物 1 人 1 人の音楽による個性の表現、Buffa と Seria の夫々の要素を対照させた上での意図的なそれ等の音楽上の組み合わせ、また Klarinette、Violine や Violoncello 等の楽器へ割り当てられた独奏声部の多用を始めとする、特徴的な Orchester の扱い方に関する管弦楽法等、Salieri の作品の中でも特に個性的で且つ同時に大変技巧に富んだものとなっている。

 また魅力的な Arie と速度の速い Rezitativ が作品の進行上の推進力を担い、又それ迄の舞台作品の作曲の仕方としては一般的であった、夫々が独立して番号付けられた部分の羅列から全体が形成されるという構成の方法から、この作品に於いては 1 つの互いに有機的に関連付けられた、より大きな複合的場面による構成へ向かおうとする傾向を明らかに見て取る事が出来る。

 この作品の初演は 1799 年 1 月 3 日に、Wien の Theater am Kärntnertor に於いて行われたが、その時の記録によるとその初演は大変大きな成功を収め、その時代では稀に見る盛大な拍手喝采が作品と演奏者達に与えられている。
作品中の数多くの曲の繰り返しが求められ、Duett については 3 回も繰り返して演奏が行われた。またその当時としては珍しく、終演後には出演者全員が舞台上に呼び求められ、Salieri に関しては聴衆の前に現れる事を 2 回求められている。

 既にこの作品の初演が行われた年に Ludwig van Beethoven (1770-1827) は、„Falstaff, ossia Le tre burle” の第 1 幕の Duett „La stessa, la stessissima” の Thema に基づいて 10 Variationen für Klavier in B-Dur (WoO 73) を作曲しており、同じく Joseph Woelfl (1773-1812) と、Klavier 奏者で特にその為の Variationen の作曲を得意とした Josepha Barbara Auernhammer (1758-1820) によっても、この同じ Thema に基づく Variationen für Klavier が作曲されている。

 Salzburg に生まれ、同地の大聖堂合唱団の子供達の為の寄宿学校であった „Kapellhaus” に於いて、Leopold Mozart (1719-1787) と Michael Haydn (1737-1806) の教えを受けた Joseph Woelfl は、1795 年から Wien に移り住んで Klavier 奏者及び作曲家として活動していたが、その Klavier 奏者としての技巧の評判は高く、1798 年から翌年への冬の季節に、同じ頃 Wien に於いて同様に、先ずは Klavier の演奏で次第にその評判を高めていた、Woelfl よりも 3 歳年長の Beethoven と共に、Wien の Plankenstern 男爵 Raymund Wetzlar (1752- 1810) の Schönbrunn 宮殿に近い Villa に呼ばれて、Klavier の技巧を争う競争が行われている。

 また一方 Wien 生まれの Josepha Barbara Auernhammer は 1781 年より、その年に Salzburg から Wien に移り住んだ Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の生徒になっており、Mozart は同年 Sonate für Klavier und Violine in C-Dur, KV 296 を、また同じく Sonate für Klavier und Violine in F-Dur, KV 376、F-Dur, KV 377、B-Dur, KV 378、G-Dur, KV 379 と Es-Dur, KV 380 を Auernhammer に献呈している。また Auernhammer は時々 Mozart と共に、彼による Sonate für zwei Klaviere in D-Dur, KV 448 や Konzert für zwei Klaviere und Orchester in Es-dur, KV 365 等の演奏で共に演奏会に出演しており、また Mozart の Sonate の印刷譜の校訂作業も行っていた。

 Auernhammer は Mozart の没後も定期的に Klavier 奏者として演奏会に出演していたが、1801 年 3 月 25 日に Wien の宮廷劇場の 1 つであった Burgtheater に於いて開催された演奏会では、その数日前に漸く出版されたばかりの、Beethoven による Konzert für Klavier und Orchester in C-dur (Nr. 1, op. 15) を演奏している。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 38«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:

Theater an der Wien に於いて行われた
Falstaff, ossia Le tre burle
の舞台


Wien

Okt. 2016

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2021 Nr. 8

Montag, November 15th, 2021

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 36

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 35«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 7]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 1795 年 10 月 14 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて初演が行われて大成功を収めた、Giovanni De Gamerra (1742-1803) の台本による、2 幕の Dramma eroicomico „Palmira, regina di Persia” (Persia の女王 Palmira) に次ぐ作品として、Antonio Salieri (1750-1825) はその翌 1796 年に、同じく Giovanni De Gamerra の台本による、Livorno を舞台とした 2 幕の Commedia per musica „Il moro” (Moor 人) を作曲した。

 この作品の初演は 1796 年 8 月 7 日に Wien の Burgtheater に於いて行われ、それに次いで Wien では 1 年未満の間に計 21 回の公演が行われている。
Salieri によるこの作品の Orchester 音楽は、独奏の Violoncello 声部を始めとして幅広い音色の対照が繰り広げられており、序曲では Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) が 1782 年に作曲し同年初演された、3 幕の Singspiel „Die Entführung aus dem Serail” (Sultan 宮からの誘拐、KV 384) と同様に、Cymbal、大太鼓と Triangle が使用されており、Osmân 帝国の軍楽隊を連想させる音楽が繰り広げられている。

 „Il moro” は Wien の公演に続いて翌 1797 年に、Dresden の選帝侯劇場に於いて上演されたのを始めとして、1804 年の夏には Firenze の Teatro dell’Accademia degli Intrepidi に於いて、翌 1805 年の謝肉祭の期間中には、この作品の舞台とされている Livorno の、1782 年 4 月 16 日に Pietro Metastasio (1698-1782) の台本と、Luigi Cherubini (1760-1842) の音楽による 3 幕の Dramma per musica „Adriano in Siria” によって杮落しの行われた、Teatro dell’Accademia degli Avvalorati ( 1782 年から 1790 年迄の間は Teatro degli Armeni という名称) に於いて、そして同年の秋には Bologna の Teatro del Corso に於いて夫々 „Il moro” の公演が行われている。

 „Il moro” の作曲及び初演が行われた翌 1797 年に、Salieri はもう一度 Giovanni De Gamerra との共同作業を計画し、彼の台本による 2 幕の Opera „I tre filosofi” (3人の哲学者) の作曲に取り組むが、この作品は未完成に留まりその後上演される事も無かった。

 これに先立つ 1792 年 4 月 20 日の France 王国の宣戦布告によって、Habsburg 君主国は他の同盟国と共に第 1 次同盟戦争を開始する事となった。France 王国は当初国内に於ける複数の反乱もあって明らかな劣勢にあったが、1796 年 3 月 2 日に Napoléon Bonaparte (1769-1821) が France 王国 Italia 軍司令官に任命されると、北部 Italia の戦いに於いて数々の勝利を収めて Sardinia 王国、Napoli 王国、教会領国と順次和平を結んで行った。そこから更に Austria 大公国の Steiermark に侵攻し、敗戦を重ねる Habsburg 君主国は 1797 年 4 月 7 日に Judenburg に於いて停戦協定が、同月 18 日には Leoben に於いて和平予備条約が結ばれ、最終的にこの戦争は同年 10 月 17 日に締結された Campo Formio の和平によって終結する。

 1797 年に Salieri が „I tre filosofi” のf作曲を開始したたものの途中で放棄され、次作品の発表迄暫くの間が開くのは、この様な最終的に Austria 大公国の敗戦となって終わった、France 王国に対する戦争という社会状況が大きく影響していると考える事が出来る。

 その後に Salier iが取り組んだのは、2 幕の Dramma giocoso „Falstaff, ossia Le tre burle” であり、その初演は 1799 年 1 月 3 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて行われた。
台本は William Shakespeare (1564-1616) による喜劇 „The Merry Wives of Windsor” (1597) に基き、Carlo Prospero Defranceschi が書いている。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 37«
[Archiv / Kommentar 2022 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:

Il moro の
Dresden 初演の際に印刷された
台本


1797

 

 

 

 

 

 

Kommentar 2021 Nr. 7

Freitag, Oktober 1st, 2021

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 35

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 34«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 6]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 1795 年 10 月 14 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて初演が行われて大変大きな成功を収めた、Antonio Salieri (1750-1825) の音楽による 2 幕の Dramma eroicomico „Palmira, regina di Persia” (Persia の女王 Palmira) からは、その音楽が大変人気を得た為に、作曲者自身によってその作品中の Thema が他の幾つかの曲の Thema として利用されたという以外に、Salieri 以外の作曲家達によっても彼等による作品の為に利用されている。

 例えば Bohemia の Klavier 奏者で作曲家の Ignaz Moscheles (1794-1870) は、彼の Impromptu martial für Klavier in G-dur, op. 65 を、„Palmira, regina di Persia” の第 1 幕中の行進曲に基づいて作曲しており、また 1782 年から Wien の宮廷劇場の Klarinette 奏者を務めていた Anton Stadler (1753-1812) は、„Palmira, regina di Persia” の Thema に基づく 3 本の Bassetthorn の Ensemble の為の作品を書いている。

 Anton Stadler は Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) が 1784 年に、Wien の Burgtheater に於いて行われた演奏会で初めてその演奏を聴いて以来、Mozart の Klarinette の書法に大きな影響を与えた演奏家で、Mozart は 1789 年に Quintett für Klarinette und Streicher in A-dur, KV 581 と、1791 年の彼が亡くなる凡そ 1 箇月余り前には、Konzert für Klarinette und Orchester in A-dur, KV 622 を Anton Stadler の為に書いて彼に献呈している。

 Anton Stadler は、元は Klarinette 奏者であったが、後に Wien の帝室王室宮廷楽器製作者となった Johann Theodor Lotz (1746-1792) と共に、Klarinette の低音域への拡大を試行錯誤していたが、その結果従来の Klarinette よりも 3 度下の A 迄演奏する事が出来る様になった、彼等によって新しく生み出された Bassettklarinette の為に、Mozart は上記の Quintett と Konzert の 2 つの作品を書いている。

 A 管の Bassettklarinette は、1789 年 12 月 22 日に、Wien の Burgtheater に於いて開催された Tonkünstler-Societät の演奏会の中で、上記の Quintett für Klarinette und Streicher in A-dur, KV 581 の初演が行われた際に、Anton Stadler によって初めて公開の場で演奏された。
これに続いては 1791 年 10 月 16 日に、Praha に於いて行われた Mozart による上記の Konzert für Klarinette und Orchester in A-dur, KV 622 の初演の際に、同じく Anton Stadler によって A 管の Bassettklarinette が Wien に続いて演奏されている。

 一方 A 管の Bassettklarinette に先立って作られていた B 管の Bassettklarinette は、最初は全音階のみが演奏可能であったが、この楽器は A 管の Bassettklarinette に先立って、1788 年 2 月 20 日に Wien に於いて初めて公開の場で演奏されている。
その後半音階も演奏出来る様になった B 管の Bassettklarinette は、Mozart によって最後の年の Konzert für Klarinette und Orchester in A-dur に少し先だって作曲された、2 幕の Opera seria „La clemenza di Tito” (Tito の慈悲), KV 621 の中の、Sesto の Arie „Parto, ma tu ben mio ” (私は行く、しかし愛するあなたは) に於いて、独奏楽器として使用されている (楽譜の表記は „Clarinetto solo” ) 。
この作品の初演は 1791 年 9 月 6 日に Praha に於いて行われている。

 一方 Fürstenberg 侯国の出身で後に作曲家となる Conradin Kreutzer (1780-1849) は、父親の意向に従って Freiburg の大学に於いて法学の勉強をしていたが、1800 年に父親が亡くなると、既に大学に入る前から各種の楽器や声楽と音楽理論も習っていた Kreutzer は、Freiburg に於いて音楽の活動を始め、1 幕の Oper を作曲して学生仲間達と共に上演するという事も行っていた。1804 年になると本格的に作曲の勉強をする為に Wien に行き、そこで St. Stephan 大聖堂の楽長で、Ludwig van Beethoven (1770-1827) や上記の Ignaz Moscheles を始めとする、数多くの生徒に教えていた Johann Georg Albrechtsberger (1736-1809) に師事する事になる。
その年に Wien に於いて行われた „Palmira, regina di Persia” の公演を聴きに行った Kreutzer は、この作品から大変大きな感銘を受け、劇場作曲家を自身の天職とする事を強く認識したと伝えられている。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 36«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 8]
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上部の写真:

Palmira, regina di Persia の
初演の為に印刷された台本の第 1 頁


Wien

1795